総集編第1回・光栄でなくてコーエーでも、栄光よ戻れ~コーエー・信長の野望編~

 「信長の野望 Internet」「信長の野望・烈風伝」「太閤立志伝III」すべて体験版で遊びました…… ま、いろいろ言いたい事も出てきました。ので、ちょっとばっかり、な。

 烈風伝をやっていて、「これは覇王伝の二の舞いじゃないか?」と思ってしまった。「支城を一つ一つ落としていく」と、非常に時間がかかるのである。というより、シナリオ2織田家だと一年間に1時間というのには参ってしまった。まあ、あとで烈風伝のウリである「威信システム」のおかげでちょっと領土を増やせば勝手に下って来ることが分かったし、敵の最後の本城を落とした場合では残りの支城が独立勢力となって誘降する(いろいろ条件はあるが。もしかしたら製品版では違うかもしれない)事もできるから、覇王伝よりはマシであることが分かった。あと、体験版=β版特有の(と、思いたい)インターフェイスの悪さと私のマシンがpoorになりつつあることによる動作が遅いことを除けば、残りの不満は内政である。田も町も、そして村も(村にレベルがあるようになったことを知った時時は驚いたが)最大レベルにしたい、と思うのは人情だろう。だが、レベルは1段階しか上げられない。何事か!かあぁぁぁぁつっ!と、将星録の面倒臭さや気合の導入でやりにくい覇王伝、214城を全部内政したい病にかかると大変だった天翔記などをすっかり忘れてムガプンである。個人的に内政は「信長の野望 Internet」程度でいいと思っているのだが、風雲録以前のあの地道さというのが「コツコツ」という感じで、本来の「内政」なのかもしれない。

 それから、「太閤3」なのだが……確かにゲームとしては面白い。ゲームとしては前作や次作よりも面白いかもしれない。ただ、「太閤3」を「太閤立志伝」とは認めたくない。私はすっかり「太閤3」は前作・前々作のシステムのままで全武将、とはいわないが織田家の武将なら全員できるようになると思っていたが、それは期待のかけすぎだというものだったのだろう。ゲームとして追及するか、太閤立志伝そのものをひたすら追及するか、どちらがいいかはまだ判断しかねる。

 「信長の野望 Internet」「信長の野望・烈風伝」「太閤立志伝III」はどれも製品版を買っていない。だから、正式にあーだこーだ書くのはやめなければならないだろう。製品版を買った人の意見を聞いて買わないことを決める、ということは私に出来ないし。

 ま、このことを踏み台にメディア市の「信長の野望」記事を振り返れば、あまりゲーム自体について書いていない第3回の天翔記を皮切りに、自分の遊び方を書いて、バグのほかは悪いところにふれず、メイン画面が1枚絵になっていたことだけをあげて「また一歩、理想に近づいていた」などといった第6・7回の将星録、そのゲーム性をべた褒めした第14回のリターンズ第27回の風雲録。ゲームの「ソフトウェア」としての面に注目した第23回の群雄伝。「信長の野望」だけで全戦国メディア市の2割を使っている。あと、「覇王伝事典」を取り上げたり、「太閤2」や「天下統一2」も取り上げた。思えば、将星録を取り上げたころのメディア市は、第2回の辛口さがウケてメディア市の方向が決まってしまい、あまり辛口なことが書けなくなっていた時期だった。あのときもうちょっと書いていれば「烈風伝」はさらにいい方向に動いたかも……と自意識過剰なことを書いてみる。

 「マクロとミクロ」ということがよく言われるが、ゲームも、少なくとも「信長の野望」も、それが当てはまるのかもしれない、と考えている。「信長の野望」の評価を決めているのはマクロのゲーム性、ミクロのゲーム性、そして遊ぶ人へのまごころと思いやり・気遣いである。「全国版」なんかはそのダイナミックさが最高なのだろう(遊んだことはないが)。「覇王伝」はそのミクロさが凄かった。上ではボロクソ書いているしか思えないが、覇王伝の合戦は一番リアリティが感じられて結構好きである。「論功行賞」も大名の心痛が感じられてよかった。ただ、「全国版」の時はミクロなものをゲームとして取り入れるにはあまりにコンピューターの能力が追いついていなかった。だから、アレでみな熱中できたという面が少なからずあるだろう。ただ、覇王伝はミクロにこだわりすぎてゲームとして辛くなっていった。それだけの話だろう。それに対して天翔記はマクロな面にこだわりすぎ、それでもまた不満は出た。私はそれでも後者のほうがましだとは思う。これは個人の好き好みの問題だと思う。細かいことがしっかししていればずぅっと熱中していられる人もいる。全体がしっかりしていないと細かいところに目を向けたがらない人もいる。将星録・烈風伝は、やはり「新時代の信長」だ。マクロとミクロのバランスはいいほうだと思うが、過去の作品が秀逸だったため、その「偉大なる先代」が超えられない現象に陥っているようにも見える。「1枚絵ユニット制」が評価されないだけかもしれない。

 それで「ユーザーへのまごころと思いやり」だが、例えば音楽。菅野よう子さんの音楽が良過ぎた為、山下康介さんに代わったときには失望された方も多いでしょう。ま、実際聞いてみれ「そんなに悪くなったわけじゃない」と分かってほっとした。ただ、「烈風伝」で将星録の曲をちょっと変えただけで、曲の名前を買える、そして甲信越地方のテーマを攻城戦での音楽に変える、というのはいただけないが。例えばムービー。オープニングムービーはいい。ただ、歴史イベントであまり多用しすぎるとそれが反感を買うようだ。あと、三国志シリーズと違って、なぜ「信長の野望」では信玄で統一しても謙信で統一しても、姉小路で統一しても里見で統一しても真田で統一しても、エンディングが信長というのもいただけない。また、インターフェイス、グラフィック、これらも「思いやり」にかかわることである。過剰に走ると厄介に思うからそこは難しい。

 問題は「信長の野望」周りのメディアかも。サウンドウェア抱合せ販売やパワーアップキットの追加発売と一緒に槍玉に挙げられるのは、「ハンドブック」「マスターブック」等の販売。マスターブックが出てきて、ハンドブックが上下2巻になったときにはさすがに驚いたけど。でも、「武将ファイル」「事典」は戦国時代・三国志の背景を知る上で非常に初心者向けの本でいい仕上がりになっていると思う。あとは、パソコンし、パソコンゲーム誌か。「プレイ時間は100時間以上」とべた褒めしている雑誌には驚いたが、「やられたッ!」と思ったのはログインである。セーブデータ形式の追加シナリオを何号にもわたって付録につけるという発想にである。金儲けうまいなーと思ったが、ユーザーが自分たちでシナリオをフリーで出している「天下統一2」と比べると、どうかな、とつい思ってしまう。

 次々と「信長の野望卒業者」を出し、私のような若輩者にピーチクパーチクいわれているコーエー。光栄がコーエーに社名変更した時に、栄光がエーコーになって「栄光」が消えうせたのだろうか? ユーザー皆を唸らせる作品を、信長9では実現して欲しい!




最近は本当にいいたい放題の筆者

(初出:「試験電波発射中」掲載「戦国メディア市総集編・第1回」1999.3.27)


第29回・何やるのか決められないのでいろいろとやってみました

 何を書けばいいのか分からぬ。別段ネタ切れなわけではない。書きたいなーと思う、紹介したかったり、批評してみたくなったりするメディアは多い。どれにしよっかなーと迷うだけである。何せ、前回が前回だったもので、それに見合うものをガツーンと推薦していかなければいけないしなあ。それに、ここんとこ忙しい、とはいわないけど、今年度四月から私生活的に、息をつく暇がなかった感じがして、そんなこと書きつつ「第三版」アップしてんじゃねーっつーのとも言われそう(最近だったら、「だっちゅーの」か?)だが、まあいい。とりあえず、こうなりゃ思いついたものは全部紹介してくれるわ! ごっちゃDEメディア市。いくとするか。



  • 書籍:PHP出版社、「戦国合戦事典」(小和田哲男著)

       この本、文庫本のおかげで740円(今の売価は知りません)と安い(私にとっては「高い」のだが)のに、なかなか充実した内容で、「事典」ではなく、それこそ文庫本として一ページから読んでいってしまいました。勿論、リファレンス的な役目としても使えて結構お勧め。



  • TV番組:日本テレビ、「知ってるつもり」

       この番組は、日本近現代史のど・まいなーな人物を取り上げる時は至極面白いと思うのだが、戦国の人物を挙げるとすると、嘘八百を並べ出して始末におえない。それも、悔しいことに「思い出せない」レベルのものばっかなのである。ああ、つかれてるのかな?私。 それはともかく、戦国時代に無知なのだったら面白いかも。小学生の時から見ている私が、「昔は」そう思っていたし。



  • 史料:角川書店、「信長公記」
       教育社の現代語訳された一連のシリーズを除けば、「歩き回らずに」出会う確率がかなり高い史料といえようか。信長公記の一般向け3つ(新人物往来社、教育社、角川書店)で唯一の文庫本にして、まさしく最高のコストパフォーマンス。ただ、「書き下し文」への訳であるので、雰囲気は出るけど、読むスピードは極端に遅くなる。御陰様で去年の5月に買ったのに未だに読み終えていない。合間合間に他の本を読んでるせいだけどね。他の「資料」でも、この角川文庫版の信長公記(奥野・岩沢氏校注)が引用されている場合が多い。



  • 書籍:学習研究社:「戦略戦術兵器事典」シリーズ
      第二巻の「日本戦国編」、第六巻の「日本城郭編」ともに勧められる。さまざまな「データ」がぎっしり★……なのは嬉しいのだが、いろいろと引っかかる点が多い。例えば、手取り川に織田信長が参加していたり、今川氏親の母親が伊勢新九郎の姉だったり、「ったく、『関八州古戦録』で合戦おってんじゃねえよ~byHN里見義堯氏」など、いろいろ問題があるが、読んでいて飽きないぞ。



  • 書籍:中公公論社、「回想の織田信長~フロイス『日本史』より~」
       これも「資料」かもしれないが、実際の目で見られた信長が語られていて面白い。信長公記よりは色眼鏡が入っているので、こちらの方が現代人向けかもしれない。冒頭のフロイス日本史の説明も十分だ。ただ、文章を読んでいると、フロイスのキリスト教関係の記述で思わず苦笑してしまうことも。



     なんか「書籍」ばっかりだが、まあいいか。最近「小説」をやっていないんで、文章にしたいとは思うんですが、どうも、一通りの作家はやった気はするので。遠藤周作とか、吉川英治、三浦綾子、早乙女貢といたあたりも紹介すべきなのかな。(T氏の小説は「資料」として使えてしまうのしか読んでいないので、とてもじゃないが取り上げられない。最近出された本をパラパラ見ると、そうでもなくなったようだが)まあ、次回は30回記念なことだし、ひとつぱあっとやるか。




    何かありげな筆者

    (初出:「戦国メディア市・第29回」1998.8.9)


  • 第28回・Good-bye

     前にも書いたような、書いていないような感じだが、メディア市には「推薦型」と「批評型」の二つの文章がある。今回はいずれにも属さない、強いて言えば「勧告型」ともいうか、「訣別型」とでもいうか。

     やはり、始まる前に取り上げといて良かった。「影武者徳川家康」 あそこまでひどいとは思わなかった。それでも、私は全部見た。ドラマ作品というのは基本的に全編見ないと非難をすることは出来ないと思っている。例えば、いじめを題材にした作品だとしても、「いじめのやり方を教えているようなものではないか」などという非難が、放送中にあったりするが、それは間違いである。脚本家やドラマプロジューサーは、その回その回だけなく、作品全体で何かを伝えようとしているのかもしれないから。しかし、今回の「影武者~」だけは、最低要素だけを詰め込んだ、ひどい作品であった。

     過去に、2回ほど大河ドラマを、そして、もう2回ほど他の「時代劇」を取り上げたが、その時に、


    1. 原作を変えるのは仕方がない、しかし、初心者に分かりやすくするような改変でないといけない。
    2. ドラマ字体に影響を与えない細かい点については、史実に沿ってもらいたい。
    3. 城=天守は、結局は視聴者の不幸に繋がる

    などといったことを書いてきたつもりだった。今回の「影武者~」はどうか?

     隆慶一郎作品の根底のテーマである「道々の輩」「七道往来人」などといった類いのものは、はっきり言って、歴史初心者には理解不能である。歴史に慣れ親しんだものですら、最初は戸惑いを覚えるだろう。だから、今回は歴史初心者を無視した作品になるのではないか?と思っていた。だが、どちらでもなかった。そういった、隆氏独特の世界設定を広めるわけでもなく、歴史愛好者から目を離させて、初心者には壁が高く、よりつくことすら困難だった。橋本政権と同じようなものである。どっちつかずで結局は身を滅ぼした。

     挙げ句の果てに飛び出したのは「安っぽいヒューマニズム」である。娘の為に身代わりとなって死ぬ父親。尊敬した人の為に戦い、そして死んだ武士。そんなんで視聴者が喜ぶとでも思っているのか? そのために、原作では最後まで生きている風魔小太郎、島左近が犠牲となった。とくに、島左近には作品のラストシーンの一端を担う、という重大な場所があったのに、それをも無視した。馬鹿げている。だいたい、最近の歴史ドラマは「原作」の、一番大切なシーンが削られる。「山霧」では「毛利元就の陰険な目を妻が見るシーン」が削られた。TVドラマで「原作」を全部、完璧にドラマ化することなぞ重々承知だ。ならば、原作の中の、印象的なシーンの一つや二つは残して頂きたい。そんなに改竄したら、「原作」とは言わない。そういえば、私が異常なような非難をしたら「だいたいテレビドラマだなんて『原作』のままで放映するようなことなんて少ないんだからさー」と、極めて一般論で私をたしなめようとしてくれた人がいるが、それは、私にとって極めて逆効果だった。そう言う考えを持っている人に聞く。「もし、夏目漱石の『坊っちゃん』をテレビドラマ化するとしたら、うらなり君が転任でなく、自殺という結果に持ちこませたらどう思うか?」「森鴎外の『舞姫』をテレビドラマ化するとして、豊太郎の前にエリス以外の女性を多く登場させたら、どう思うか?」「芥川龍之介の『蜘蛛の糸』をテレビドラマ化するとして、糸が切れたあとの天国のシーンをながったらしくやってみたら、どうだろうか?」「太宰治の『走れメロス』のドラマで、メロスが日暮れに数分、間に合わなかったけれども暴君であるディオニスが、セリヌンティウスとメロスの友情に心打たれたこの二人を許したら、如何?」「壺井栄の『二十四の瞳』で、戦後の同窓会で、12人全員が、戦争を無事にくぐりぬけ再会したら、どう思うか」

     「歴史小説」はノンフィクションかもしれない。しかし、「時代小説」はフィクションなのだ。いや、表面的にはノンフィクションだが、その内実は、作者の思い描く世界である。上記に挙げた作品と同等である。それを変える勇気がある、というのはよっぽどのことだ。むしろ、製作者側を誉めてやりたいくらいだ「よくそんな勇気が出たな」と。

     おまけに、テレビ朝日のお得意芸である「江戸城天守=姫路城天守」を忠実にやってくれるわ、もう、それは。そんなんだから、日本人に「城=天守」などといった天守至上主義を埋め込み、各地の史跡に詐欺天守――観光協会は「模擬天守」などというが――が作られ、大切な文化財(石垣、土塁もそれである)を見事なまでに台無しにしてくれるのだ。おまけに、大坂城も姫路城だわ、駿府城も姫路城だわ、で、江戸城も姫路城。ご苦労様、製作者も。画像撮りの苦労のあとは見うけられるが、努力のあとは見うけられない。

     総括して言えば、時代錯誤、本末転倒、意味不明、馬鹿丸出しだった、というところだ。

     では、なぜ、そんな作品にここまで雑言・暴言を吐いたのか? それは、「もう、『時代劇』をこの戦国メディア市で取り上げることはないだろう」ということだからだ。もう、書いても意味はないだろう。非難のしようもないし、救いようもないのだから。

     確かに、上記のようなこと、原作、画像その他を忘れてみれば、面白いかもしれない。事実そうだった。「影武者徳川家康」と「捨て童子・松平忠輝」のダイジェストパロディとでもいえば通りはいいが、その内実は「惨憺たる要約」だ。この手のドラマだと、キャスティングに疑問を感じる人も多かろう、と思う。確かに、甲斐の六郎=片岡鶴太郎というのは少しばかり?だった。しかし、そのようなものは『プロ』の演技力でどうにかなる。しかし、その演技力も内容がないよう、という古典的ギャグながらも、本当にそういう状況だったら、無駄となる。

     まあいい。ものを「非難」「批評」するには、「ある覚悟」が必要だが、私は覚悟している。まあ、わたしにはそのようなものは、与えられないだろう、とは安心している。野党が与党の背負っているものを背負わされる覚悟くらいはしておかないと、民衆からは非難が起こるから。

     まあ、最後に一つだけ書いておこう。これからは「多チャンネル化」の波が来ることくらい、知っているだろう。そんな波がきたからとて、いまの地上波各局が簡単につぶれるなどとは思っていないが、下らん番組を見る人は、いなくなる、ということだ、と。テレビ朝日は選挙関連の番組や、討論番組などは面白いんだから、それに「暴れん坊将軍」などの「ありきたり時代劇」は「姫路=江戸」を除けば、面白いから、がんばってください。

     さよなら。





    そういうお前は更新遅延を反省しているのか>筆者




    DATA:テレビ朝日、「影武者徳川家康」
    (初出:「戦国メディア市・第28回」1998.7.19)