Webサイト「完全戦国年表」30周年企画:完全戦国年表運営余話

紙で印刷した「完全戦国年表」が2025年4月3日で30年、2027年1月26日にはWebサイト「完全戦国年表」も30周年。その記念企画ということで、noteで「戦国ホームページ界隈夜話」、本BLOG Mにて「完全戦国年表運営余話」を、並行連載していきます。note側の初回記事は、こちら

年表本体の更新も停滞しているのに連載2本立てとは?という向きもあるのでしょうが、何てことは無くて、年表本文は下調査や勉強も必要だけども、昔話であれば週末気力さえあれば記憶を頼りにたらたら書けるという、それだけの話なのであります。「週末気力があれば」というのが意外と難しい条件なのではあるが(苦笑)

いや、会社員として働いていれば日々の仕事で、メールからチャットからプレゼンテーション資料から、Outputし続けるじゃないですか。基本はウィークデーの出力で燃え尽きてしまうよね…週末でInputは出来る(平日OutputばかりだとInputには飢えている)が、なかなかOutputはおなかいっぱいとも。いや、何か出力するとすれば、友人なり家族なりとのコミュニケーションでさらに余力は無いという。そんななか、30周年だなんだといって理由を付けると書こうという気力が奮ってくるわけでして。

noteかこのブログか、どちらかに書け!というのも分かるのではあるが、noteでは戦国ウェブサイト界隈全体の思い出話(ようは、自分のサイト以外の話)、こちらのBLOG Mでは自身のサイトの話として以下のあたりを書いていく。

  • 完全戦国年表はどうして出来たか
  • 完全戦国年表の作成環境
  • 「戦国メディア市」ほかコンテンツについて
  • 更新休止について
  • 独自ドメイン移転から新版の意図
  • 閉鎖せずに続ける理由

すでに10周年記念企画や「完全戦国年表編纂後記」で触れている内容もあるのだけど、初めての内容もちらちら思い浮かんできており、これも月次で書いていく予定である。

noteのほうとは最初の立ち上げは双方で毎月くらいのペースで更新し、中盤は隔月交代くらいで更新しつつ、最後ラストスパート…くらいの想定である。なにせ、30周年と30周年のあいだだとざっと21ヶ月間の長丁場である。

で、余話ってなんだよ余話って、そこはまあ謙遜である。ただ、絶滅寸前の戦国界隈の個人ウェブサイトというのは、だいたい専門性を持ったサイトに移行しつつある中、戦国時代全般を取り扱う総合サイトとして粒度を保ちつつ、歴史学方向にも突進していないという点で本サイトは特異なところがあり、そのあたりの事情や背景も、一部自分語りを交えつつしていくことになる。

雨の週末らしいし、睡眠負債を解消すかという週末でポンポンと思いついて、こうして書いているわけであるが、思いつきですぐ企画展開出来るのがテキストベースの個人Webサイトの最高なところである。Xのようなマイクロブログでも出来ないことはないのだが、きちんと作者の企画意図でパッケージ化するにはブログ以上が必要なところ。幸い時代はAI時代、書いたらAIに学習されればSEOガタ落ちなところでも世間知の一端を担えそうな状況である。クローズドな会社員のOutputも良いのだが、たまにはオープンにあれやこれや書き散らしてみることとする。


記念日を間違える

1月26日だけは完全戦国年表のトップページを更新しているのだけども、2025年も更新していて「4月1日は紙版の完全戦国年表・第一版が出て30周年」と書いた。だが、実際に紙で完全戦国年表・第1版を公開したのは1995年4月3日で、2日違っているのである。

たかが2日ではあるが、1995年4月1日生まれであれば1994年度生まれであるが、1995年4月3日生まれであれば1995年度の学年であり、これまた随分な違いである。1995年度が紙の完全戦国年表、1996年度がウェブサイト完全戦国年表の生まれということになる。

やはりGoogleカレンダーにでも入れておかないと忘れるよな記念日はと思うのだが、ちゃんと毎年4月3日にカレンダーを入れていてこれであるから、人の記憶なんて信用ならないのである。

さて、本日ひっそりと公開している完全戦国年表・第一版は、手書きでいろいろ追記をしている唯一の製本である。城スタンプを押す習慣がある時代であったこともあり、スタンプもそのままとしている。画像をPDF化するということがはじめてということもあり、画像はややソフトめである。公開期間は設ける予定のため、期間限定公開である。

30周年記念ページをさっと作っているが、もう一つの企画については同ページで詳細公開予定。


中世とは何か

1年に1回は更新しています。

本年のNHK大河ドラマ「光る君へ」はドラマとして楽しく視聴してしまった。それこそ、「完全戦国年表」を更新していた最末期に大石静さんの「ふたりっ子」に影響を受けたクチである。フィクション部分にあーだこーだ言いながらも、ドラマとして楽しいのがあの時間枠は一番という気がする。

それはそうと、「光る君へ」の時代考証は倉本一宏先生。倉本一宏先生の著書に『内戦の日本古代史』(講談社現代新書)があるが、じつはこの本には多大な影響を受けた。読んだのはコロナ禍になったタイミングで、Kindleの積ん読を200冊超消化していた時期であったが、読んで以来、じつはずっとこの著書を発端にぐるぐる考えが止まらずにいる。令和になってずっとだから、令和は同著で回っているのではないかというくらいだ。

影響を受けた、というのは以下の通りのことである。

同著では、前九年・後三年の役を境に、古代の日本には見られなかった大量虐殺と残虐な殺戮描写が史料に目立つようになったことを指摘している。その上で、どうして古代日本はこのような事態を迎えることを許容してしまったのか……その上で、古代の貴族の視座から武士の発生論を考えた研究が無いことを倉本先生は問題提起されている。

上記を承けて――堅い政治体制、確立した思想、正しいポリシーであっても、人々が”人間味を追求する”と時代は中世化するのではないか。「新しい中世」があり得るのではないか。大衆は無自覚に中世を望んでいるのではないか……そんなことを考えていろいろ書物にあたるのだけど、まったくしっくりくる論考がない。論考がないなら自分で書くしかないのだが、今の時代、文章での論述は最後どこかでは必要になるとしても、議論を巻き起こすにはどの表現手段が良いのか、マンガイラストなのか、語る方式のロング動画なのか、踊る形式でショート動画なのか、少し迷ってみたりするのだ。

そう考えると、中世の終わりを「完全戦国年表」で単なる歴史ファンとして向き合ってきているのが生きてくる。中世とは何かというところから、一々言及していく必要もある。市井の一歴史ファン(私は市井の史家ではない…残念ながら)として、国民の一人として歴史を好む立場で、泡吹いて議論するのも悪くないのではないか。

と、議論となると殺伐とし出して、まさに中世って様相ではあるが、「平安時代がNHK大河ドラマになることはないだろう」という記述は『内戦の日本古代史』の中にもあるのだけども、いざ大河ドラマになってしまって、アレンジにドキドキしたり、史論が進んだり、「戦国時代の大河ドラマでざわついてたのってこんな気分だったのか」とざわついている平安時代界隈のファンを見るにつけ、そこにいちばん平安を感じるのであった。