第28回・Good-bye

 前にも書いたような、書いていないような感じだが、メディア市には「推薦型」と「批評型」の二つの文章がある。今回はいずれにも属さない、強いて言えば「勧告型」ともいうか、「訣別型」とでもいうか。

 やはり、始まる前に取り上げといて良かった。「影武者徳川家康」 あそこまでひどいとは思わなかった。それでも、私は全部見た。ドラマ作品というのは基本的に全編見ないと非難をすることは出来ないと思っている。例えば、いじめを題材にした作品だとしても、「いじめのやり方を教えているようなものではないか」などという非難が、放送中にあったりするが、それは間違いである。脚本家やドラマプロジューサーは、その回その回だけなく、作品全体で何かを伝えようとしているのかもしれないから。しかし、今回の「影武者~」だけは、最低要素だけを詰め込んだ、ひどい作品であった。

 過去に、2回ほど大河ドラマを、そして、もう2回ほど他の「時代劇」を取り上げたが、その時に、


  1. 原作を変えるのは仕方がない、しかし、初心者に分かりやすくするような改変でないといけない。
  2. ドラマ字体に影響を与えない細かい点については、史実に沿ってもらいたい。
  3. 城=天守は、結局は視聴者の不幸に繋がる

などといったことを書いてきたつもりだった。今回の「影武者~」はどうか?

 隆慶一郎作品の根底のテーマである「道々の輩」「七道往来人」などといった類いのものは、はっきり言って、歴史初心者には理解不能である。歴史に慣れ親しんだものですら、最初は戸惑いを覚えるだろう。だから、今回は歴史初心者を無視した作品になるのではないか?と思っていた。だが、どちらでもなかった。そういった、隆氏独特の世界設定を広めるわけでもなく、歴史愛好者から目を離させて、初心者には壁が高く、よりつくことすら困難だった。橋本政権と同じようなものである。どっちつかずで結局は身を滅ぼした。

 挙げ句の果てに飛び出したのは「安っぽいヒューマニズム」である。娘の為に身代わりとなって死ぬ父親。尊敬した人の為に戦い、そして死んだ武士。そんなんで視聴者が喜ぶとでも思っているのか? そのために、原作では最後まで生きている風魔小太郎、島左近が犠牲となった。とくに、島左近には作品のラストシーンの一端を担う、という重大な場所があったのに、それをも無視した。馬鹿げている。だいたい、最近の歴史ドラマは「原作」の、一番大切なシーンが削られる。「山霧」では「毛利元就の陰険な目を妻が見るシーン」が削られた。TVドラマで「原作」を全部、完璧にドラマ化することなぞ重々承知だ。ならば、原作の中の、印象的なシーンの一つや二つは残して頂きたい。そんなに改竄したら、「原作」とは言わない。そういえば、私が異常なような非難をしたら「だいたいテレビドラマだなんて『原作』のままで放映するようなことなんて少ないんだからさー」と、極めて一般論で私をたしなめようとしてくれた人がいるが、それは、私にとって極めて逆効果だった。そう言う考えを持っている人に聞く。「もし、夏目漱石の『坊っちゃん』をテレビドラマ化するとしたら、うらなり君が転任でなく、自殺という結果に持ちこませたらどう思うか?」「森鴎外の『舞姫』をテレビドラマ化するとして、豊太郎の前にエリス以外の女性を多く登場させたら、どう思うか?」「芥川龍之介の『蜘蛛の糸』をテレビドラマ化するとして、糸が切れたあとの天国のシーンをながったらしくやってみたら、どうだろうか?」「太宰治の『走れメロス』のドラマで、メロスが日暮れに数分、間に合わなかったけれども暴君であるディオニスが、セリヌンティウスとメロスの友情に心打たれたこの二人を許したら、如何?」「壺井栄の『二十四の瞳』で、戦後の同窓会で、12人全員が、戦争を無事にくぐりぬけ再会したら、どう思うか」

 「歴史小説」はノンフィクションかもしれない。しかし、「時代小説」はフィクションなのだ。いや、表面的にはノンフィクションだが、その内実は、作者の思い描く世界である。上記に挙げた作品と同等である。それを変える勇気がある、というのはよっぽどのことだ。むしろ、製作者側を誉めてやりたいくらいだ「よくそんな勇気が出たな」と。

 おまけに、テレビ朝日のお得意芸である「江戸城天守=姫路城天守」を忠実にやってくれるわ、もう、それは。そんなんだから、日本人に「城=天守」などといった天守至上主義を埋め込み、各地の史跡に詐欺天守――観光協会は「模擬天守」などというが――が作られ、大切な文化財(石垣、土塁もそれである)を見事なまでに台無しにしてくれるのだ。おまけに、大坂城も姫路城だわ、駿府城も姫路城だわ、で、江戸城も姫路城。ご苦労様、製作者も。画像撮りの苦労のあとは見うけられるが、努力のあとは見うけられない。

 総括して言えば、時代錯誤、本末転倒、意味不明、馬鹿丸出しだった、というところだ。

 では、なぜ、そんな作品にここまで雑言・暴言を吐いたのか? それは、「もう、『時代劇』をこの戦国メディア市で取り上げることはないだろう」ということだからだ。もう、書いても意味はないだろう。非難のしようもないし、救いようもないのだから。

 確かに、上記のようなこと、原作、画像その他を忘れてみれば、面白いかもしれない。事実そうだった。「影武者徳川家康」と「捨て童子・松平忠輝」のダイジェストパロディとでもいえば通りはいいが、その内実は「惨憺たる要約」だ。この手のドラマだと、キャスティングに疑問を感じる人も多かろう、と思う。確かに、甲斐の六郎=片岡鶴太郎というのは少しばかり?だった。しかし、そのようなものは『プロ』の演技力でどうにかなる。しかし、その演技力も内容がないよう、という古典的ギャグながらも、本当にそういう状況だったら、無駄となる。

 まあいい。ものを「非難」「批評」するには、「ある覚悟」が必要だが、私は覚悟している。まあ、わたしにはそのようなものは、与えられないだろう、とは安心している。野党が与党の背負っているものを背負わされる覚悟くらいはしておかないと、民衆からは非難が起こるから。

 まあ、最後に一つだけ書いておこう。これからは「多チャンネル化」の波が来ることくらい、知っているだろう。そんな波がきたからとて、いまの地上波各局が簡単につぶれるなどとは思っていないが、下らん番組を見る人は、いなくなる、ということだ、と。テレビ朝日は選挙関連の番組や、討論番組などは面白いんだから、それに「暴れん坊将軍」などの「ありきたり時代劇」は「姫路=江戸」を除けば、面白いから、がんばってください。

 さよなら。





そういうお前は更新遅延を反省しているのか>筆者




DATA:テレビ朝日、「影武者徳川家康」
(初出:「戦国メディア市・第28回」1998.7.19)

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