2004年08月一覧

はじめての御来光

岩手山からのご来光 仲間たちと岩手山(岩手県)へ登ってきた。2000m級の山は初めてで、正直不安もあったのだが、経験者の友人に助けられ、無事帰ってくることが出来た。
登山で泊まって来たのは初めてで、御来光を拝むのも初めてだった。その日は、山頂付近は穏やかな天気で、これだけ山頂付近で雲も無く晴れ渡っている日は年に5回もないよ、と宿泊した避難小屋の管理人の方に教えていただいた。最初の岩手山登山で御来光を拝めるのは、相当に運が良いらしい。
雲海を眺める、といったことも(飛行機以外では)初めてだった。異風景を眺めていると、嫌な出来事の記憶がリセットできる。
自分たちの登っている姿は、あの「利家とまつ」のオープニングを連想させた。人生、誰かと登りついてたどり着いた先に、光は見えるのであろうか。ただ、登ること自体が楽しいとも、思えなくはない。
私は、町を歩くとき、学術的なことを考えずにはいられない。人里ならば、「ここの農業は…」だとか「歴史的経緯から考えると…」と、そちらに頭を使ってしまう。だが、大自然の中をふらりと歩いていると、あたまをからっぽにする時間を持つことが出来る。人間としてのプリミティブな部分を感じずにいられなくなる。旅にも、人里をいくのみならず、ほぼ手付かずの場所を行くことも必要なのであろう。


「カチッ」と来る言葉

 最近、よくボウリングに行くようになった。スコアはあまり、高くない。100を越えれば良いほうである。最近はガターを出さなくなったものだが、いかんせんマークが出ない。出なければ70~90が妥当なところだろうか。アドバイスは多く受けるのだが、私の体に響く有益なアドバイスには(アドバイスしてくれる人たちには申し訳ないことに)なっていない。
 先日も友人らとボウリングに行った。彼らは私よりもはるかにボウリングの上手である。なので、私の下手な投げ方にいろいろ指摘をくれるのだが、その日はとくにスコアが伸びなかった。マークも出ない。ガターも連発した。あまりの己のヘタレさににやけている私に対して、友人がやや冷たげに一言放った。
 「えっちゃんは集中してないんだよ」
 私は、「カチッ」と来てしまった。「ムカッ」としたというわけではない。よって、「カチッと来た」というのが適切な言い回しだろう。なんでそんなに言われなければならないのか。いや、彼に悪意があったわけではなく、思ったことをそのまま口にしただけであったろう。だが、自分に対するネガティブな評価に対しては、私は繊細にならざるを得ない質なのである。私は、普段は喋りながらゲームを楽しむ方だが、その日はそれ以降、途端に無口になってしまった。眼も鋭く、自然、雰囲気もとげとげしくなった。
 言われて以後は変貌した。しばらくはその「言われたこと」自体を頭の中で悩み、特段集中力があがったわけでもなかったが、その「言われたこと」に対しくよくよしなくなり始めた途端、急激にスコアが伸びた。ストライクを3回も出したのは、私にしては上出来だったであろう。上手の友人2人とも、互角に渡り合えた(最終的に負けてしまったが)。先ほど私に「集中していない」と言った友人も、このゲームでは集中していたことを認めてくれた。自分でも、なかなかに集中できていたように感じた。
 そのゲームでは、友人2人も集中出来ていたと、後で語っていた。普段スコアが低い私が、スクラッチで彼らを越えるスコアを出していた面も、普段良く喋る私の無口さが伝わった面も、多少はあるだろう。だが、まさかそのトリガーが自分本人だったと、「集中していない」と言った友人は分かっていたかと問われれば、果たしてどうだろうか。少なくとも、自分はその種の発言を多くしてしまっているだろうが、それが人を変えていることにまったく気付けないでいる。他人の気持ちが自分と同様に分からない以上、どうやってそんなことを知り得ようか。
 普段、生活していると何気ない一言が他人を変えることが多いことに驚かざるを得ない。また、発言はその瞬間瞬間の判断で出てくるものなので、発言をしくじったなと後悔する事もしばしばだ。
 思えば、先日のボウリングの一件だけではない。高校のとき、日本史のテストが学年皆低かった。それを、友人らと前年時の担当の先生の教え方が悪かったからだと、冗談半分で話していた。そしたら、近くの席に座っていた級友が「みんな勉強していないだけでしょ」と冷たく言い放たれてしまった。そんなこと、当たり前ではないか。なんて場が読めないやつなんだ。そういう教師の悪口になったら、話を合わせるのが人付き合いと言うものではないか。彼は、そのときのテストで自分より点数が高かった。「カチッ」と来た私は、奴に日本史の点数では負けるまいと誓った。それ以降、私は日本史のテストでは彼に負けることは無かったと思う。それだけでなく、学年1位も取れたのは、彼のおかげと言うべきかも知れない。だが、彼は発言したこと自体を忘れてしまっているのではないだろうか。自分なら、そんな些細な発言覚えているわけがないゆえそう思うのであるが、どうだろうか。
 歴史には、このような日常の一こまは記録されない。本人もそういったことを証言するわけもない。だから、たとえば「なぜ本能寺を襲撃したのか」という答えには結論が出ない。だからこそ、歴史学の外では個々人が想像によって埋め合わせてよいのだろうが、その埋め合わせにこそ、個々人の生き方が垣間見える気がしてならない。
 原因・理由は些細なきっかけであることが往々にしてある。それは歴史では、小説の場以外感じ得ないが、リアルな生活ではいっぱいに感じ得る。それは、普段の生活特有の楽しみと言える。それを楽しめていない人間の歴史推理は、手堅いが面白みがない。説得力がない。
 私を育ててくれる、ひんやりとした発言をする人間には感謝している。意図的に屈辱を与える輩と違い、打倒しなければ自らの身が危ういことはない。大体の人間は、普段は親しく接してくれ、私を褒めてくれることも多い大切な友人連中なのだ。ただ、私はそのクールさを、猛烈に温度上昇させて燃え上がるのみである。私の冷徹な一言に触発される人間とているだろう。その人間に越えられるのも悪くはない。結果のみが、後世に残るのであろう。思いは結果にリンクする。思いを重視しなければ、人間は人間たり得ない。