編纂後記一覧

Merkmark Timelines各サイトの編集後記

中世とは何か

1年に1回は更新しています。

本年のNHK大河ドラマ「光る君へ」はドラマとして楽しく視聴してしまった。それこそ、「完全戦国年表」を更新していた最末期に大石静さんの「ふたりっ子」に影響を受けたクチである。フィクション部分にあーだこーだ言いながらも、ドラマとして楽しいのがあの時間枠は一番という気がする。

それはそうと、「光る君へ」の時代考証は倉本一宏先生。倉本一宏先生の著書に『内戦の日本古代史』(講談社現代新書)があるが、じつはこの本には多大な影響を受けた。読んだのはコロナ禍になったタイミングで、Kindleの積ん読を200冊超消化していた時期であったが、読んで以来、じつはずっとこの著書を発端にぐるぐる考えが止まらずにいる。令和になってずっとだから、令和は同著で回っているのではないかというくらいだ。

影響を受けた、というのは以下の通りのことである。

同著では、前九年・後三年の役を境に、古代の日本には見られなかった大量虐殺と残虐な殺戮描写が史料に目立つようになったことを指摘している。その上で、どうして古代日本はこのような事態を迎えることを許容してしまったのか……その上で、古代の貴族の視座から武士の発生論を考えた研究が無いことを倉本先生は問題提起されている。

上記を承けて――堅い政治体制、確立した思想、正しいポリシーであっても、人々が”人間味を追求する”と時代は中世化するのではないか。「新しい中世」があり得るのではないか。大衆は無自覚に中世を望んでいるのではないか……そんなことを考えていろいろ書物にあたるのだけど、まったくしっくりくる論考がない。論考がないなら自分で書くしかないのだが、今の時代、文章での論述は最後どこかでは必要になるとしても、議論を巻き起こすにはどの表現手段が良いのか、マンガイラストなのか、語る方式のロング動画なのか、踊る形式でショート動画なのか、少し迷ってみたりするのだ。

そう考えると、中世の終わりを「完全戦国年表」で単なる歴史ファンとして向き合ってきているのが生きてくる。中世とは何かというところから、一々言及していく必要もある。市井の一歴史ファン(私は市井の史家ではない…残念ながら)として、国民の一人として歴史を好む立場で、泡吹いて議論するのも悪くないのではないか。

と、議論となると殺伐とし出して、まさに中世って様相ではあるが、「平安時代がNHK大河ドラマになることはないだろう」という記述は『内戦の日本古代史』の中にもあるのだけども、いざ大河ドラマになってしまって、アレンジにドキドキしたり、史論が進んだり、「戦国時代の大河ドラマでざわついてたのってこんな気分だったのか」とざわついている平安時代界隈のファンを見るにつけ、そこにいちばん平安を感じるのであった。


「完全戦国年表」の更新休止から25年になる

1年に1回は更新しています。

なんでも明日2024年1月1日で「1999年1月1日午前2時の完全戦国年表更新休止から25年」らしい。姉妹サイトの「MACHIDA PC MAP」は更新休止してそのままいったん閉鎖されていることを考えれば、単に更新されなかっただけで公開はし続けているわけだから、別に何らの問題も無いのではとも思う。

更新休止をかけたのは、ズバリ大学受験があったためなのだが、これについては過去に書いた通り、更新は続けて、更新をしていることを誰かになんか言われないように勉強を頑張った方が健全である……なのであるが、大学受験率が100%の学校での同調圧力は半端ないので厳しい話であることは確かでもある。

「完全戦国年表」はむしろ更新していなかった期間、2000年代前半が絶頂期で、単に「戦国」「戦国時代」「完全」「年表」と1単語Google検索しただけでトップに出てきていた。この頃手入れがいろいろ出来てれば、商業ベースでやっていけていたかもしれない。が、その頃は社会人時代の今も真っ青の忙しさなのであった。半分は学生会のただ働きだったが、学生の経験としては大きなものであった。

さて、年1回の更新(?)で実態の無い更新休止25年話をしているのは一つ理由がある。ウェブサイトの25周年でいろいろと書き散らそうとしていたが、見事に企画がぽしゃっており、少しばかり「どうする家康」が(ネガティブに)盛り上がったので便乗して一発ついでにかましてみるか、何か口実は無いかなと見ていたら、更新休止25周年ということに気づいたわけであった。

なんせ当方、中学生にして大河ドラマ批判を行い(27年前)、ネットにおける大河ドラマ批判の嚆矢と言っても良いかもしれない。何回か書き散らした戦国メディア市過去回を読み返しても、思想と経験を積み重ねた今となっても違和感がなく、同意見である。更新していた2年の間に、やっていい誇張と抑えて欲しい線を区分けして言及するところまで至っており、やはりスーパー中学生だったのではないかと思ってしまう。

なお、「どうする家康」は個人的には楽しく最後まで視聴した。過剰演出や同作独自の創作はあったが、これは楽しめる範囲。「戦国無双」シリーズで、没年クソ食らえを経験した後では楽なものである。自分が把握出来る史料違反は記憶にないし、むしろ同作によって最新の家康周りの学説を勉強する機会が増えた。便乗して書こうと思っていたのは、歴史創作(「歴史ファンタジー」)に対する歴史学界隈のあたりの強さが年々増している件についてだ。先に書いた更新休止は大学受験にあたってのものであるが、「歴史系ウェブサイトを運営しているにもかかわらず、史学科に進まなかった」自分がいるという事実もあるのだ。情報系に最後行ったのはもののはずみではあるが、そもそも私立文系を決め込んだ時でも、(史学科の多い)文学部でなく、政治学科(法学部か政治経済学部か)を攻めていた。歴史学を自らの学問としない、と高校生の時には意志決定していた。正直、この時の判断も誤っていたとは思えず、やっぱりスーパー高校生だったのではないかと思わざるを得ない。歴史学界隈と、世間一般で一致しているところ、ウェブの発展によりすりあわせが容易になっているところ、昔も今も乖離したままのところがいろいろあるなと思い、書きたい欲求が出てきていたのであった。が、これは書くのであれば、もうちょっと自分の経験をディスクロージャーして書いた方がよい、今は時ではないという判断になり今書くことを諦めてしまった次第である。

じつは2023~2024年の年末年始は17連休で、今回ばかりはどこにも行かず少し更新するべきところはしよう、と思っていたのだが、平素の雑務の溜まりを解消するのでまだ本を借りてくるところくらいまでしか出来ていない。が、年初は少しばかり溜まった追記タスクもやりたいし、CSSと向き合ってやってみようかと思う。

最近ふと思うのは、今の自分の興味関心は「完全戦国年表」寄りの歴史学よりは、「MACHIDA PC MAP」寄りの商業・リテール、そして街の栄枯盛衰なのではないかということだ。歴史学の手法は、どの対象を捉えるときにも重要なので大切なのではあるが、城跡よりは街中を歩き回ることが多いのが現状である。歴史学の手法で史料批判により何かを詳らかにしていくよりは、いま街を歩いてみて、そこで気づいた事に対して、あらゆる学問の手法を使って論を組み立てるということに強い関心があるのだ。

そう考えてみると、「完全戦国年表」をはじめとしたメルクマーク各サイトを商業化することでなく、やはり古き良き個人ウェブサイトの文化の範疇で、発信をしていくというスタイルが自分には合っていると言える。ウェブサイトを仕事にすること以上の経験を、実務として経験することが出来たことを鑑みれば尚更そう思える。

個人ウェブサイトの生き残りとして、もうしばらくは存在感を出してみようかと思う。今後ともメルクマークタイムラインズ各サイトをよろしくお願いいたします。


歴史の当事者になるということ

昨年の更新では「歴史Webサイト界隈の小話を書く」としているが書いていない。2022年の可処分時間は町田PCマップ2022で終わってしまった。ASAHI-NETサーバに残ったコンテンツで、先に書いた特別企画以外にもスマートフォン対応やUTF-8化など、このタイミングで一気にやりきったというところで、これはこれで大事な作業だった。

直近の話題はネット記事にするところも多いから残るだろうが、20世紀のうちに閉店したショップの情報は私がかつて書いていたコンテンツを今なお公開している「MACHIDA PC MAP」しかないというケースも多い。

歴史に関係ないWebサイトではあるが、「書き遺す」ことにモチベーションが高いのは「完全戦国年表」を通して学んだ歴史学の影響が多分にある。正しく学んだわけではないのだけども、史料はあるに越したことが無いという体感が行動に出ている。

さて、会社員として仕事をしていると、限定的なのではあるのだけど、「○○の歴史」の当事者になっていることもあるのではないか。得難い経験で、後世の人間に後ろ指を指されないような振る舞いかたをしたいとは思うものの、言うは易し行うは難しである。それはそうと、なかなか企業のことを記録するというのは難しく、社史を作るような会社でないと公になることはないのではないか。

これは会社によりけりだよなと思うこともあり、例えばセゾングループは莫大な証言が公開されている。だいたい、始祖が作家の顔を持つという時点で「強い」のだ。西武百貨店・無印良品・リブロといった、生み出された企業群も証言は多い。だから、勉強になることも多い。

昨今のコンプライアンスからすると情報統制は喫緊の課題である。そのせいで、外部の人間が好き勝手に書いた内容が正史になりかけているところもあり、忸怩たる思いもある。この「歴史が勝手に作られている」問題は問題化されてすらいない節があり、実に良くないことだ。証言だけでも残していかなければなるまい。

私も世間も、現代史を少しなおざりにしてきた。政治史すら、もう20年前のことをみんな忘れている。それもこれも、何か言説が出てきたときに「違うよ」と潰す行為をサボってきたことに他ならない。外部の人間の記述であっても、当事者の証言があれば、後世で史料検討できるはずだ。