Mac mini速報レポート::PC Watch
早速分解してるし…(笑)
Mac miniはG4 Cubeを彷彿とさせるつくり。正直ローマシンでOS9で動かしているデザイン事務所も多いと聞くけど、これがOSX移行の起爆剤になるかもってくらいデザインが重視されていて正直びっくりした。499ドルMacって聞いて、もっとかつてのPowerMacintoshみたいなのっぺりしたマシン出してくるかなとか思っていたから。メモリだけは不足で1GBにしようとすると割高になっちゃうけど、ビデオまわりが値段の割りに高性能。小汚い部屋に雑然とおくのに向いてるかも。iMac G5の時ほど欲しいとは思わせないけど(結局買える値段ではないんですよねー<iMac G5)…お金あったら買ってしまいたかったなあ。PC用のキーボードとマウスが流用できると宣伝していたり、今までとは違う何かを感じる。
でも、さっそくここの記事のように「Mac on Linuxで使いたい」「BSDを…」と、脱OSXをしたがる風潮が出てきたあたり、Appleってばやっぱハードウェアメーカーなのかと寂しくなってくる。でも、実際これでうごくPCなりサーバなりがいまのところないから仕方ないとも言える。
ただ、今日実際に実機が出てくるようになってびっくりしたのは、そのACアダプタのどでかさだ。本体が小さいというべきなのかどうか。
実際、箱に入れて持ち運び、キーボードは各行き先においてあるフルサイズのものが使えるのは大きな魅力だ。ディスプレイもたいていの場合にはあるに違いない。もしかして、鞄の中に雑に入れても大丈夫なのではあるまいか? さらに、MacOSXは(なんだかんだ言われても)Unixの血を引いているので、SSHクライアントも標準でないWindowsに比べて都合が良いことが多い。
世の中的にはiPod shuffleのほうがインパクト大だったのかもしれないけど、やはりこーゆー個性的なモノは気になって仕方がない。
…なんか、PC関連の話をインターネットで書いたのは「MACHIDA PC MAP」閉鎖以来久々か。コンピュータはやはり楽しい。
「2005年01月」一覧
なぜキーボードを叩き続けるのか
関満博をはじめて知ったのは「週刊東洋経済」のある記事だった。修士課程から大学に浸ることなく、実社会に出て経験を積んだ経歴が大学教授の中では異彩を放っていた。いや、もっと鮮烈だったのは「古今東西の専門書50冊を買い込み、1分野3ヶ月で読み終える、3ヶ月の終わりごろには寝不足になるので立って読む」という強烈な勉強手法、それから「妻が小説家の娘で、家とは本だらけであるもの、そういう生い立ちであったことは私には何より救い」というのにギャフンとしてしまった。
それからしばらく。書店にはいるたびに、紺色の「すごい本!」という帯が何回も目に入るようになった。 山形浩生の朝日新聞書評からだった。インパクトある帯をちくまもつくったものだとおもう。そこで初めて私は本を手に取った。旅行時の荷物の写真が目を引いた。だが、それだけでは買うわけには行かなかったのである。
だが、必要あって私は前述の週刊東洋経済をひっぱっていたら、なんとあの新書はあの関満博の著書ではないかとはじめて知るに至った。かくて私はこの本を購入したわけだ。
で、読んでみて。今までの「知的生産法」系という本の中では1番良かったと私は感じている。と言っても、10冊はまだ読んでないのだけども。この本のポイントは、現場主義を徹底させる「薀蓄」 実際の取材の事例が参考になるうえ、手荷物を徹底的に削減しフットワークの良さを確保するオタクなまでの追求がかなりアツい。実際、空港で待ちぼうけするのはイヤだし、私の経験からも史跡を歩くとき、小駅のあるかないか分からないコインロッカーが埋まっていて重い荷物をもって歩き回るより、軽い荷物でフットワークよく、駅に着いたらすぐ歩き出したほうが効率が良い。
一方で、現場調査→執筆活動というサイクルを泥臭く語っているのもポイントだ。生産性を上げる「巧い手」が無いことを喝破したうえで、書く時間を確保するためのエピソードが面白い。「とにかくキーボードに向かう時間をひねり出し、余分なことを考えずに、叩き続けることであろう」と、あらゆる知的生産を行う人間に覚悟を迫っている。だが、ここまで述べてきたことを考えれば、その覚悟は容易にできそうな(否、してしまいそうな)カラクリになっている。そこに、著者と著者を乗せた編集の巧さを感じ得る。
同様に、本は「売るもの」という指摘も虚を衝く突きだ。証言を残すために筆者が行う努力は凄まじいの一言である。〆切をはるか前に原稿を入れる、編集者を悦ばす術が、信頼できる人を推薦する資産になる話は、〆切当日にならないと何も仕事をしない私には耳が痛い。
酒席で「志」を語るかたちは、いわゆる社会科学の大学現場において古くから使われてきた方法だと思うが、その古き良きメソッドが健在であることを実感させてくれた。人との交際こそ、知的生産において最も達成が難しく、必要な分野であるが、その体験的方法論がさらりと触れてある。
旅行で衣類は捨ててくる、論文はラブレターのように書く、整理をしただけで仕事した気分になるのは良くない、共著の意義…珠玉の至言が多いが、ウットリさせてくれる飴のような甘美さはなく、むしろ夏に夕立の中を駆け抜ける爽快感が読後に残る。痛くはないが、これからどうしよ、と少し心弾みながら楽しく困るあの感じだ。
「楽しさ」が工場の現場には落ちていて、それが町に根付いている。それに触れるのもまた楽しさであり、それがために己を磨く楽しさがある。人の心はこうもウキウキするものかとまだ若い(と思っている)自分に示してくれた。知的生産(あるいは知的生産っぽいこと)をする人間にとって、この手の燃料は得がたいものだ。各地を飛び回ってなおキーボードを叩くことの嬉しさを改めて教えてくれた良本だ。
救急車をタクシーと思うべし
横浜市にある大学病院に行く機会があった。すると、そこにはこんな張り紙がはってある。「救急搬送の6割弱が軽症者です。救急車を他に求めている人がいます」 思わず、私は憮然とした。
……と、ここまでお読みになって、隆慶一郎のエッセイ集・時代小説の愉しみ(現講談社文庫)にある「救急車をタクシーと思うべし」に限りなく近い逸話であることを想起されたかもしれない。実際、私もこの短編を読んで救急車はタクシーでなければならないと強く思うようになったからだ。
…まだ読んでいない方で、上記の考えに異論のある方はぜひ1度手にとって読んでいただきたいのだが、大筋は救急車を呼ぶことを「みっともない」と考えた筆者の知人の母が、夜中に喘息の発作を起こした筆者の知人に、朝になったらタクシーを呼ぶから我慢をするよう諭し、結果として筆者の知人が亡くなってしまったという実話である(但し、病院搬送が遅れたことと死亡したことに因果関係があるとは断定はできない)。通夜の席で、知人の母が「私が殺したんです」と泣き叫ぶ姿が描かれている。掲載をしていた新潟日報において、先の張り紙同様に「困る救急車のタクシー利用代わり」という記事が掲載され、それが隆慶のトリガーとなって掲載されたエッセイのようだ。
だいたい、一般人にとっては「胸が非常に締め付けられる」「呼吸が出来ない」「熱が40度ある」といった症状でもって救急車を呼ぶのであり、実際にそういった症状だったけども「軽症」で医学的に分類されるもので直ぐに帰れたというのであれば慶賀すべきことではないか。少なくとも、そういったケースが6割弱の軽症者の大半でなないのか? お年寄りが安易に軽症で救急車を呼ぶケースもあるのだそうな。だが、横浜市のような都市圏(郊外部とて都市圏である)において、老人だけの住まいが車を持つことはあまり考えられない。地方と違い、老人が車なしでは生きていけないような環境ではないのだ。だとすれば、老人専用の救急車をつくろうとか言う発想の方がまだ現実的解決策であって、フラットに「軽症者の分際で救急車使うな馬鹿氏ね」というのは、なんという野蛮であろうか。
「軽症なら呼ぶな」などと救急車を管理する側が言えば、市民は、たとえ重症でも「軽症かもしれない」と考えるようになるものである、件のポスターを作成した人間はそこまで思いが至らなかったのだろうか。それで病院搬送が遅れれて人命を失うような仕儀になれば、ポスターを作成・掲示した彼ら彼女らは殺人者ではないのか。
と、ここまで書いていて私はいったん筆を折ってしまった。Googleで検索して行き着いた横浜市立大学医学部・看護学部の学園祭での発表「検証!!横浜市の救急医療」のうち、現場の方のご意見を見て、私は憮然を通り越して激しいショックを受けてしまったがゆえである。これは救急現場従事者の心のケアを考えなければならないのでは、という程度に実際はひどいようだ。“救急車をタクシー代わりにつかう輩(あえて患者とは言わない)”という言葉が出てきた上に、多くの方が救急車有料化に賛成されている。※この有益な企画を遂行されページを公開してくださっている横市大の有志の方に敬意を表します。意見を寄せられた医療関係者の方も、お忙しい中状況を訴えるために学生に協力された姿勢は立派であると考えております。
しかし、それでも件の張り紙によるリスクはあまりに大きいと指摘せざるを得ない。
そもそも「1割の重症救急搬送者が6割の軽症救急搬送者のせいで殺される」という表現のしかたは、数字を出して脅迫をかける新興宗教のマインドコントロールと何の代わりもない。重傷者で救急車を呼ばずに命を落とした人と、救急車を呼んだのに軽症者を搬送していたせいで救急車を使えず亡くなった人では後者の方が多いのだろうか? 状況を訴えるのであれば、隙のないような根拠を示していただきたい。あなた方のいまの広報方法では、実際の状況が詳らかにされず何の解決にならないどころか、医療への不信感を増大させるだけである。状況が改善する伝え方は他にもあるのに、数字でブラフをかますとは。やはり救急医療現場はもぅ逆上のエリアで、市民をひとくくりにして“自分の首を絞めているのが分からないのか”とおっしゃっているが、それを見る限り「市民!おまえらのせいで市民の命が救えねえんだぞ」というレベルにイってしまっていると断定せざるを得ない。
本当は、実際に一般人とて救急車を呼ぶレベルではないと、コンセンサスを得られるようなケースも多いのだろう。しかし、多くの市民にとって救急車で搬送されるのはあなた方と違って日常ではないことは改めて指摘せねばならない。そういう非日常が、救急現場の厭きれた日常を全部と思い込んでいる人間によって、良識ある市民の首を絞められているのである。これを、救急現場の人間は本当に「是」とするのだろうか。
敢えて言う。救急車を有料化して、隆慶一郎のエッセイ「救急車をタクシーと思うべし」に出てくるような人命の失い方をするのと、ごくごく一部のふざけた輩が救急車を不正利用して救急医療現場の人間がぶち切れストレスが溜まるのとどっちが良いかと問えば、後者のほうが良いのではないか? 実際に軽症者の利用中に重症者が運べなかったケースがどれほど出ているのか触れられていない以上、間違いなく「救急車安易に使うな」系のポスターや救急車の有料化は、健全な救急患者とその家族を悲劇の淵に追いやる類のものである。
医療現場の方の反論もおおいにあるだろう。一部不謹慎な利用者が居ることはよくわかった。だが、「実際に現場はひどい」というのを繰り返すだけでは、実際の状況は市民に理解されないと思う。少なくとも、一般人も一緒に憤ることが出来る不正使用のケースを具体的に挙げるべきである(これでも、いざって時に「不正利用になるんじゃないか」と重症者が考えてしまうリスクはつきまとうが)。是非とも、「軽症」「重症」という括り方を超えて、不正利用をなくすような声の上げ方をして欲しいというのが私の願いである。
最後にもう一度断言する。「救急車を安易に呼ぶな」と市民に訴えるのは危険極まりない行為である。