完全戦国年表編纂後記一覧

「完全戦国年表」の更新休止から25年になる

1年に1回は更新しています。

なんでも明日2024年1月1日で「1999年1月1日午前2時の完全戦国年表更新休止から25年」らしい。姉妹サイトの「MACHIDA PC MAP」は更新休止してそのままいったん閉鎖されていることを考えれば、単に更新されなかっただけで公開はし続けているわけだから、別に何らの問題も無いのではとも思う。

更新休止をかけたのは、ズバリ大学受験があったためなのだが、これについては過去に書いた通り、更新は続けて、更新をしていることを誰かになんか言われないように勉強を頑張った方が健全である……なのであるが、大学受験率が100%の学校での同調圧力は半端ないので厳しい話であることは確かでもある。

「完全戦国年表」はむしろ更新していなかった期間、2000年代前半が絶頂期で、単に「戦国」「戦国時代」「完全」「年表」と1単語Google検索しただけでトップに出てきていた。この頃手入れがいろいろ出来てれば、商業ベースでやっていけていたかもしれない。が、その頃は社会人時代の今も真っ青の忙しさなのであった。半分は学生会のただ働きだったが、学生の経験としては大きなものであった。

さて、年1回の更新(?)で実態の無い更新休止25年話をしているのは一つ理由がある。ウェブサイトの25周年でいろいろと書き散らそうとしていたが、見事に企画がぽしゃっており、少しばかり「どうする家康」が(ネガティブに)盛り上がったので便乗して一発ついでにかましてみるか、何か口実は無いかなと見ていたら、更新休止25周年ということに気づいたわけであった。

なんせ当方、中学生にして大河ドラマ批判を行い(27年前)、ネットにおける大河ドラマ批判の嚆矢と言っても良いかもしれない。何回か書き散らした戦国メディア市過去回を読み返しても、思想と経験を積み重ねた今となっても違和感がなく、同意見である。更新していた2年の間に、やっていい誇張と抑えて欲しい線を区分けして言及するところまで至っており、やはりスーパー中学生だったのではないかと思ってしまう。

なお、「どうする家康」は個人的には楽しく最後まで視聴した。過剰演出や同作独自の創作はあったが、これは楽しめる範囲。「戦国無双」シリーズで、没年クソ食らえを経験した後では楽なものである。自分が把握出来る史料違反は記憶にないし、むしろ同作によって最新の家康周りの学説を勉強する機会が増えた。便乗して書こうと思っていたのは、歴史創作(「歴史ファンタジー」)に対する歴史学界隈のあたりの強さが年々増している件についてだ。先に書いた更新休止は大学受験にあたってのものであるが、「歴史系ウェブサイトを運営しているにもかかわらず、史学科に進まなかった」自分がいるという事実もあるのだ。情報系に最後行ったのはもののはずみではあるが、そもそも私立文系を決め込んだ時でも、(史学科の多い)文学部でなく、政治学科(法学部か政治経済学部か)を攻めていた。歴史学を自らの学問としない、と高校生の時には意志決定していた。正直、この時の判断も誤っていたとは思えず、やっぱりスーパー高校生だったのではないかと思わざるを得ない。歴史学界隈と、世間一般で一致しているところ、ウェブの発展によりすりあわせが容易になっているところ、昔も今も乖離したままのところがいろいろあるなと思い、書きたい欲求が出てきていたのであった。が、これは書くのであれば、もうちょっと自分の経験をディスクロージャーして書いた方がよい、今は時ではないという判断になり今書くことを諦めてしまった次第である。

じつは2023~2024年の年末年始は17連休で、今回ばかりはどこにも行かず少し更新するべきところはしよう、と思っていたのだが、平素の雑務の溜まりを解消するのでまだ本を借りてくるところくらいまでしか出来ていない。が、年初は少しばかり溜まった追記タスクもやりたいし、CSSと向き合ってやってみようかと思う。

最近ふと思うのは、今の自分の興味関心は「完全戦国年表」寄りの歴史学よりは、「MACHIDA PC MAP」寄りの商業・リテール、そして街の栄枯盛衰なのではないかということだ。歴史学の手法は、どの対象を捉えるときにも重要なので大切なのではあるが、城跡よりは街中を歩き回ることが多いのが現状である。歴史学の手法で史料批判により何かを詳らかにしていくよりは、いま街を歩いてみて、そこで気づいた事に対して、あらゆる学問の手法を使って論を組み立てるということに強い関心があるのだ。

そう考えてみると、「完全戦国年表」をはじめとしたメルクマーク各サイトを商業化することでなく、やはり古き良き個人ウェブサイトの文化の範疇で、発信をしていくというスタイルが自分には合っていると言える。ウェブサイトを仕事にすること以上の経験を、実務として経験することが出来たことを鑑みれば尚更そう思える。

個人ウェブサイトの生き残りとして、もうしばらくは存在感を出してみようかと思う。今後ともメルクマークタイムラインズ各サイトをよろしくお願いいたします。


2022年1月26日、「完全戦国年表」は公開25周年を迎えます

1年1回程度は更新しています。
2022年1月26日、「完全戦国年表」は公開から25周年を迎えます。「完全戦国年表」25周年特別企画……はとくに予定なしorz

いや、20周年特別企画の「完全戦国年表・第4版」が今にして思えば超弩級企画過ぎた。人生で一番時間が出来たとき(中学入学以降では唯一ではってくらい)によくぞぶち込んで実現できた。おかげで20世紀デビューの戦国時代を扱う個人Webサイトでしぶとく生き残っているわけであるが…

じつは、姉妹サイトというか、双子の妹(にして、更新中は「完全戦国年表」よりも人気サイトだった)「MACHIDA PC MAP」も同様に25周年なので、こちらで企画をしようと企んでいるのである。企画を企む。頭痛が痛いみたいなものか。尤も、「MACHIDA PC MAP」は本当に公開をやめた時期があるので25周年というにはブランクがある。だがしかし、公開日から25周年であることは間違いがないこと、その25周年前というのがちょうど町田にメディアバレーやソフマップが出来たあたりの年で話題になっていた時期であることから、「MACHIDA PC MAP」公開日はエポックメイキングな出来事でもあり、まさにメルクマー“ク“なのである。

「完全戦国年表」ほかメルクマークタイムラインズ各サイトについては、通常更新も全く出来てない、諸事がやるやる詐欺なのではあるが、ちょっと今考えているのは、歴史Webサイト界隈の小話でも1年くらいかけて書いてみようかということ。それもこの公式ブログでなく、どっか別のホスティングブログサービスで(爆) オウンドメディアは大事なのだけど、やはり集客という観点でははてなブログやnoteのほうが流入が見込まれ、たまには里で畑仕事だけでなく、街に出て一講釈垂れないとダメだなという次第。


ということで、年末なので最近の「完全戦国年表」について少し書いておく。

大河ドラマが戦国時代かそうでないかの影響は、ある

2020年「麒麟がくる」のときはコロナで放送期間が1年2ヶ月もあり、日曜日の本放送が終わったあたりから月曜日までアクセスが明確に伸びていた。戦国時代全般に検索があがるからか、特定の用途において「完全戦国年表」はプレゼンスを維持しており、相当の流入があった。「青天を衝け」は、影響が無いわけではなく、完全幕末年表へのアクセスはちょっとはあるのだが、同サイトは25年選手の「完全戦国年表」に比べるとページランクから知名度・ポジションまで諸々が弱く、昨年ほどではなかった。……最近のブログ系歴史ファン向けWebサイトでは大河ドラマ特集を組んで対応しているのだが、もう20年近くやろうとおもってやっていない。ガハハハ! やるやる詐欺の年季が違う!

「完全近現代史年表」の伸び率が凄い

直近90日のアクセス流入において、トップページのPVだけであれば「完全戦国年表」の半分に迫る勢いという。正直、「完全幕末年表」より伸びるとは全くの想定外で。理由としては、そもそも近現代史を薄めの情報で扱うサイトは少ない、そして百度からの流入である。……ま、別にアドセンスで広告収入を得ているわけではないのでいろいろゆるして欲しいところである。

「完全戦国年表」にせよ「MACHIDA PC MAP」にせよ、25周年やって来られているのは見に来てくれている閲覧者の皆様のおかげです。本当にありがとうございます。


「戦国時代人物名鑑 第2版」における明智光秀の年齢について

1年1回程度は更新しています。実は[BLOG M]、毎年1回は更新してきたのに、今年は年の瀬ギリギリだった。単純に平日は心を無くす程度の忙しさゆえであり、休日は休日でコロナ禍で外出し難いため徹底的にinputに行動を寄せたゆえである。

それで書こう書こうと思って書く機会を失ってきたのだが、今回は「明智光秀の年齢」について言及しておきたい。

Webサイト「完全戦国年表」が第3版から第4版へと全面改訂するにあたり、旧版から意志を持って内容変更した項目の一つに、この明智光秀の年齢がある。
旧・第3版時代の「戦国時代人物名鑑・第1版」では大永8/享禄元<1528>年生まれとしていた。が、第4版時代の「戦国時代人物名鑑・第2版」では永正13<1516>年生まれに変更している。

資料をいろいろ読み込んでいく上において、織田家関連の記述は谷口克広氏の著作が突出して安心感があり、言うなれば「打率が高い」状態だった。人物・合戦など、あらゆる項目に逐一納得感があり(著者は1990年代に武功夜話の高低差キーンとなる評価→偽書判定の流れ、立花論文三職推任問題を”歴史愛好家として”見てきている)、いろいろ批判的言及をする学者も出てきているが、著作ベースで古いと思われる内容はまだ無さそうな様子である。

その谷口氏の著作である『織田信長家臣人名事典 第2版』(吉川弘文館)は、20年以上評価が定まった労作である。

『織田信長家臣人名事典』明智光秀の項において、本能寺の変時(天正十<1582>年)の年齢について以下の通りの記述がある。

五十五歳とされることが多いけれど、これは、百年以上後に書かれた『明智軍記』の説にすぎない。もっと信頼度の高い『当代記』を見ると、その付記の部分に「六十七歳」と書かれている。その記事のほうを信用すべきであろう。

谷口克広『織田信長家臣人名事典 第2版』(吉川弘文館)

谷口氏にそのように書かれて反論の余地がなかった。上記から、永正13<1516>年に変更した次第である。

今後未来永劫固定するつもりはもちろんない。光秀の妻の年齢、嫡男の年齢から不自然なところもあるのだが、上記以上に説得力のある論に当たることは出来なかった。享年55のほうがしっくりくるし、67ではトシ取り過ぎだろとも思うが、好き好みで記述を決めるわけにも行くまい。というか、せっかく大河ドラマに明智光秀が採用されたのでこれを機に新史料でも出てきてくれるかと思ったが、それはどうやら無さそうで終わるようだ。

ふつう、歴史学においては確定的な史料がなく、判断しがたいときは「不明」とすることを避けようとはしない。分からないものは分からない、とするほうが歴史学の態度としては信頼がおけるものである。ところが、「完全戦国年表」というのはその成立からして「尤も確からしい年月日を決め打ちで当該年度の発生した日時とみなす」という方針があり、その点では非誠実なのである。

このあたり、歴史学の学問の根幹における重大な構造上の問題を突いているところもある。歴史学においては定説とされる内容を、史料を発掘したりだとか、他の史料との整合性から崩すことを好む傾向がある。しかしながら、国民としては何か一つの定説が必要だったりするのだ。往々にしてそれは、自らにとって気持ちよい、心地よい方向に説が振れがちである。その欲求は欲求としてきちんと認めつつも、歴史学という学問に敬意を持って、人間として誠実な立場を取りたいと考えている。