第17回・理由はともかくとして

歴史小説・・・を読み続けてはきたが、氏の作品と出会ったのは結構遅く、もう通産で、9000ページは読んでいた頃だ。山岡荘八歴史文庫に生き、吉川英治、海音寺潮五郎、早乙女貢にも手を出していた。そのあと、ふと「国盗り物語」を買ってみた。これが、氏との出会いであった。

電車の中で読み始める。最初は「はずしたか」と思った。話についていけない、わからない、状況が空想できない、つまらない。しかし、あるシーンを境に一気に本に溺れてしまった。そのシーンは、本の50ページ目だった。主人公が暗闇に聳え立つ人影が、児小姓か女かを確かめるために、「念のために」股間に手を差し入れる、というシーンだった。当時まだ13才だった「ボク」には、ちとインパクトが強すぎた。海音寺潮五郎「加藤清正」、早乙女貢「明智光秀」は、お二人の作品中では比較的おとなし目だったからだ。それ以降、悲しいかな、まさしく氏の術中だった。

ここらで氏の名前と今回戦国メディア市に取り上げる作品の名を明かそう。氏の名前は、「司馬遼太郎」 超メジャーにして、戦後の歴史小説の第一人者、その上作者が一番読んでいるのではないか、という方にもかかわらず、なぜかメディア市には未登場だった方だ。取り上げる作品は氏の作品中でも特に名作の誉れ高い「国盗り物語」

この作品はもともとは斎藤道三だけを書くために題も「国盗り物語」とされたそうだが、編集部の意向によってもっと続く事になり、道三の弟子とも言える信長と光秀の二人を主人公にした(編注:名目的に主人公は織田信長一人だが、実質的な意味合いや小説自体の書かれ方も考え見て、あえてこのように書く)後編も出来たのであった。

前編は前編でまさしく、「国盗り」のプロセスが面白い。人間模様がやはり、他の作家達とは違ったか書かれ方がなされており、とっても斬新だった。そして、小説の醍醐味とも言える「主人公の反則なまでの強さ」もある。誰だか、氏が亡くなられた時、「司馬遼太郎作品に批判的な」評論家なるものが、「司馬作品は日本人が格好良く、甘く描かれているので、読者にとっては、気持ちいいのだろう」などというコメントが載っていたような覚えがあるが、そうじゃないと小説でない気がする。当時は「何こいつ言ってやがんだ」とかと思ったものだが、うーん、批評って難しいな。

前編では主人公の神出鬼没ぶりも見物ですな。突如、京の残してきた妻の元へ行ったり、土岐頼芸をわざわざ船で送ったり、とまさしく、小説らしい書き方ではないか。

後編では、「鬼と人と」が如く、織田信長と明智光秀の人間がテーマになる、と思っているのは私だけであろうか。それぞれのビジョンの違い、そして光秀が最初から大名でない事による信長への思い、信長に対する優越感が崩れた時・・・そこらは「フツーの」歴史としてじっくり見るとまさしく一大物語だ。そして、信長のダイナミズムも忘れてはいけない。織田信長はやっぱりカッコ良い。男だ。そして、道三・信長・光秀三人ともが戦国の世に相克の果て倒れる。その終劇も細川藤孝を登場させうまくあしらい、無事小説は終わる。すごい。

その後私は続けて読んでしまいましたよ、司馬ワールド。「関ケ原」「城塞」と。いやー、面白い面白い。これまでいくつか読んできて、やはり司馬さんの作品は極めてスタンダードな面白さがある。山岡荘八作品は人物にくせがある(そこが面白いのだが)、海音寺潮五郎は「坦々」という感じだ(それはそれがいい)。なんだかんだいって、司馬さんの小説は結局いつまでも読んでいるんだよね。

しかし、晩年は歴史小説を書かれなくなった事、そして氏の死により、私がまだ読んでいない司馬さんの戦国作品はもう「夏草の賦」くらいになってしまった。残念。

司馬遼太郎の小説の御蔭で幕末へも流れ込みつつある筆者

DATA:新潮文庫、国盗り物語
(初出:「戦国メディア市・第17回」1998.1.24)

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