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坂はおきつくございませんか、ええ多少きつい方が登り甲斐がありますもの

司馬遼太郎の「坂の上の雲」を先日読了した。面白くなかった。
…いや、「面白くない」はあんまりだという感が私とてある。しかし、この程度の断定を修辞として行わなければ、「Theメディア市」はメディア市足り得ない。司馬作品の中でも特に圧倒的支持者を集めるこの作品、いつだったかの文藝春秋のアンケートでは多く経営者たちが絶賛していて、人気ランキング上位だったと思う。しかし私は、作品の面白さとしては「竜馬がゆく」「国盗り物語」に及んでいないと感じたのだ。
何故か。それは、「坂の上の雲」では人間ではなく国家を描いているが故である。司馬遼太郎作品というのは、基本的に一人の人間、それも男の生涯を淡々とながらも考察深く、史料で足りない部分は小説家の想像によって補うことによって、堂々と描いて見せてくれるのが特徴である。
しかし、「坂の上の雲」ではそうではない。確かに表向きは同郷の秋山兄弟と正岡子規が主人公という扱いだが、3,4巻あたりからそうとも言い切れなくなる。日露戦争を描くには、この3人だけでは追いきれないのである。正岡子規に至っては物語からいなくなってしまうわけだし。仕方ないので、乃木・伊地知から明石、児玉、東郷、そしてステッセルやロジェストウェンスキーに至るまで、視点をあちこちに移さざるを得ない。その点では一大叙事詩となることに成功しているが、感情移入がし辛い構造となってしまっている。
さらに言えば、この小説は司馬作品にしては女っ気がない。秋山兄弟が晩婚主義者ゆえ仕方ないのかもしれないし、ある意味では一番女性が出てこない(表の裏にさえも)時代だといえばそれまでだろうが。司馬作品は、魅力的な男に対して、それを取り巻く個性的な女性からの視点が提供されることが多く、その視点こそが面白みを増すのに貢献しているのだ。私が「竜馬がゆく」を評価しているのは、おりょう、さな子、お田鶴さまという女性らがあまりに際立っているゆえである。逆に、「燃えよ剣」の評価が世間より下がってしまっているのは、お雪の魅力がやはり土方歳三の魅力に勝てずに終わってしまっているが故といえる。
同じ時代を描いた作品でも、「殉死」はきっちりと乃木希典を真正面から捉えている。「殉死」の方が「坂の上の雲」より印象に残る作品である。最期のシーンでは妻の心理にも筆が及ぶ。女から見た男の視点は、やはり信用できる。
「坂の上の雲」は一人の男を描いてみせ、その「カッコ良さ」を描いた類の小説ではない。書かれたのは、「ユナイテッド・ジャパニーズ」なのである。多くの人がこの一大叙事詩を面白いというのは分からなくはない。掛けているBETが違うのだ。「国盗り物語」で松波庄九郎が国盗りに失敗しようとも自身がこの世に存在している気はしても、もし日露戦争に負けていれば己の身は存在していないと感じるのだ。だから、綱渡りながらも知恵と勇気で困難を乗り切る物語に心が震えるのである。己の命を掛けたエンタテインメントが面白くないわけがあろうか。
だが、私はやはり司馬作品には一人の「生き様」を期待してしまっていたようだ。最初からノンフィクションとして読んでいれば良かったのかもしれない。単行本第4巻のあとがきにある「この作品は、小説であるかどうか、実に疑わしい」という文言は、極めて示唆的である。
数少ない収穫は、秋山兄弟の勉強っぷりである。丹念な書籍のサーベイが日本の運命を克ったという点は渡部昇一の「知的生活の方法」に通ずるものがある。
「坂の上の雲」は面白くない。だが、それは英雄(ヒーロー)の時代ではない時代を描いたがためのさだめかもしれない。しかし、ちっぽけな個人が、それぞれの場所で己の最善を尽くせば、時代が創られることを示してくれている。その意味では、己もいっちょやってみっか、と奮い立たせてはくれるのである。
神話の時代は最早過ぎた。だが、日常を生きるには十分に楽しい舞台が我々には用意されているのだ。


忘れ得ぬ雑誌

 かつてのメディア市において、やろうとやろうと思ってついに取り上げられなかったメディアがある。コンピュータゲーム雑誌「LOGiN(ログイン)」である。私が戦国時代に興味を持ったきっかけは小学校のときの社会の先生であったが、父の部屋にあったログインのおまけディスク「天下統一II」とめぐり合っていなかったら、『完全戦国年表』だなんてサイトを作るまでに至らなかっただろう。いや、それだけではない。私の興味体系ツリーは戦国時代の下にほぼぶら下がることを考えれば、ツリーの頂点に位置するのがこの「ログイン」といえよう。
 小学生時代の私が手にしたのは92年のログインで、そのころはPC9801が圧倒的シェアだったが、FMTOWNSも勢いがあり、X68000も健在で、MSXが最期を飾ろうとしていた時期だった。小学生の私には、分からない記事も少しはあったが、難解で読めないということはなく、新たなるステージへと移行する助けにはなったかと思う。その後、立ち読みの時期を経て、95年の初めからは毎号買うようになった。
 ユーザとしてのコンピュータリテラシーは、ログインに負う所が大きい。また、ログインによって得た知識は、ネタ的なるものから人生にとって全く必要のない無駄なものまで幅広い。ユンケルを始めて知ったのも不定期連載の「知らなかったほうがよかった世界」だ。銀河英雄伝説、ウィザードリィ、ファンタジー、声優、アニメ、映画など浅く広く素地を作ることが出来たのも大きかった。
 幅広く歴史を知ることが出来たのもログインのおかげだ。「風雲!史学塾」は、おもしろかった。「三国時代」には影響を受けた。学者ごっこでさかしらが跋扈する戦国時代愛好者フィールドで1人孤独を感じていた身として、三国志の正史と演義の棲み分けは羨ましく思えたものだ。
 何よりも、「れたぁず桃源郷」なり「バカチン市国」なり「お利口ちゃん倶楽部」なりのバカっぷりには、大きく影響を受けたと思う。私が面白くひょうきんに振舞うことが出来るようになったのは、これら記事のおかげだろう。まあ、笑いのツボが人と違うところにあるらしい遠因とも言えるが。
 寺島令子の「墜落日誌」は、私が中高生時代に単行本を買った数少ない漫画である。日歩の日常を綴る形式の漫画としてはエポックメイキング的なものだろう。楽しい人生とは何か、考える端緒ともなった。
 ログインに限らず、アスキー発行の雑誌は編集者の個性がやたらと強く、「出版業界は昼前に出て終電で帰る、締め切り前は徹夜」ということを知ったのもこの雑誌だった。そんなわけで自分も、タバコと缶コーヒーと栄養ドリンクで徹夜のDTPをやることを覚えてしまった。イクナイ。
 ログインは96年の真ん中から、以上のような濃い内容路線を捨て、普通のパソゲー雑誌になってしまった。が、これは必要な路線変換だったと言えなくもない。パソコン普及率が大きく上がり、普通のパソコンゲーム雑誌が必要だった気もするからだ。その頃にもなると、他に買うべき本が増えすぎて、コストパフォーマンス的に割に合わなくなったこともあり、毎号買うのは止めてしまった。今も昔の名残は見えないことはないが、最近は回りに書店がないせいか、手に取る機会も減ってしまった。
 ログインによって、私のアプリケーションとも言える対外インターフェイスはバラエティに富み、磨きがかかったと言える。ログインを下北沢の書店で買って、小田急線の準急でゆっくり自宅へ戻っていた日々が、今となっては猛烈に懐かしい。新しい発見にちりばめられた、幸せな一時であった。
 ところで、ログインには「メディアマーケット」なる記事があった。「戦国メディア市」は基本的に、テレビ・書籍・ゲームが色とりどりに並んでいる「市」という漢字からのネーミングなので、意図して真似たものではない。だが、私のベースとなった雑誌にそういった名前のページがあったことは、偶然とは言えない何かを感じずにはいられない。