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「義経」から見た東北

書いてはなかったが、今年の大河ドラマ「義経」は見ている。去年の「新選組!」は物語を見る傾向があったが、今年は役者を堪能する方向で見ている。全部終わったら、1回くらいの分量で書こうとは思っている。
ちなみに、原作「宮尾本・平家物語」は読んでいない。理由はまず、私はハードカバーで小説を読まないからだ。お金をケチっているというのもあるが、小説を読むのはたいてい文庫である。電車で読みやすく、首都圏を離れて車生活の今も、その時の習慣が残っているともいえる。「壬生義士伝」も「天を衝く」も文庫化を待って読んでいる。他の理由として、時代が自分の専門外というのもあるが、何よりも大きな理由と言うのは、小説を読んだ後に映像化された作品を見ると100%がっかりするからということだろう。この話はかつて「戦国メディア市総集編・第2回『原作論・史実と事実』」で少し触れた。
ただ、その時代のことを知りたければ、歴史の教科書を取り出すよりも歴史小説を1本読んだほうが感触がつかみやすい。ということで、代わりと言っては何だが、司馬遼太郎の「義経」を手に取ることにした。
義経をもって日本史は初めてヒーローを持ったという。義経の政治的迂闊さと軍事発想の天才的センス、それから幼さ、その社会観が語られる一作で、例によって司馬作品らしく読みやすい。まあ、これまた司馬遼太郎作品らしく(?)、遮那王として寺にいた義経が稚児として、覚日に「寵せられる」シーンや、そのほか衝撃的な義経の性的衝動も描かれている。
頼朝と義経の悲劇がメインかとは思うが、義経を通して(今在住している)東北について描かれているのが私には印象深かった。
吉次に「売られる」同然で平泉に連れてこられるわけだが、まず白川の関を越えると黄金で塗り上げられた阿弥陀仏が道標として津軽の外の浜までびっしり植えられているという描写が出てくる。交通行政は政権が強大でなければ出来ない、と書き加えられている。往時の奥州の豊かさがインパクトを私に与えた。俘囚扱いされる以前、縄文時代には三内丸山よろしく豊かな実りの大地であったわけで、大和政権の奥州侵略を乗り越えての、奥州にとっての華やかな時代が印象付けられる。
義経はまだ雪深い中を春まで待つため、長者の家で春まで泊まることになる。宿泊の許可を得ようとする義経を長者はあっさりと許し、それどころか、絶叫して激しい承諾の意思表示を行う。宿泊しての最初の夜、都人の「たね」を奥州人の血に入れる目的で長者の娘が伽に来た。二重瞼で顔の彫が深い、まつげぱっちり…って今のご時勢なら美人そのもののだろうが、少しでも当時の都びとのように、鼻が低く扁平で色白、髭が薄い一重瞼に奥州人をしていこうと、都びとの種が尊重されるというわけだ。そういった顔が増えると、奥州人は喜び、奥州も「熟した」としたということになる…と描かれている。私はこの一節にぎゃふんとしてしまった。なんというコンプレックスだろう、と。
当時の奥州人のコンプレックスはそれだけではない。奥州の兵は17万騎、馬と金を産出していて、富強な土地である。しかし、なぜ自分に兵を貸してくれないのか。そういう疑問を持った義経は京に忍びで上ることとなる。そこで義経が見たのは、奥州藤原氏の海員たちが、京では地下人にまで卑下し、上目を使うシーンであった。王たる藤原秀衡にすら、白河から西の王土に「怖れ」があることを義経は知るのである。奥州人に伝統的人種卑下感が存在しており、その怖れが「白河以北からそっちは侵さないけどこっちも侵さないでね」という独立国家的姿をとり続けている要因となっていることが描かれている。だが、坂東武者は京の権威は倒せばいいという、奥州人や義経の発想に思い至らないところまでいっており、そこの差が坂東人を背景にした頼朝と義経で出ていたことを解き明かしている。そうして、そのシーンはこんな文で締められる。

九郎の不幸は、従順すぎる奥州武士を背景に持ったことであろう。

物語の末期には、義経主従は、なぜ武士が頼朝に従うのかということに対して、「その源氏の血」ということを考えていたが、実際にはそうではなく、地所持ち侍の気持ちが分からなかったということが描かれている。頼朝以下、弟といえども平等だという坂東武者たちとの差異がくっきりと出てくる。
平泉(ロケ地の江刺も含めて)はよく源義経を推している。しかし、義経を殺したのは、頼朝のブラフに屈した奥州人であるということは(北行伝説はともかくとして)動かせない史実である。頼朝の姦計に乗って義経を殺して滅ぼされて以来、東北地方は常に中央の後手後手に回ってきた。明治維新のころと違って東北人が不利益を蒙ることはなくなっただろう。今や上記ほどのコンプレックスがあるわけもない。それでも東北蔑視の傾向はあり、中央に対してお人よしなところはあるのだと思う…こんなエントリを書くこと自体がそうかもしれないが。ただ、自分も本籍東北の血なのか、理不尽に対して反論せずに押し黙ってしまうことがあるような気がする。この奥州の地にどういった自信を持っていくがが今問われている。
小説の描写がすべてではない。しかし、司馬遼太郎は古本屋の関連図書を根こそぎなくなるまで史料・資料を読み込んだといわれている。歴史学者より小説家のほうが勉強しているケースとてあるのである。もちろん想像が入るが。この「義経」の東北の描写は自分にとって衝撃的だった。思い当たる節が自らに鑑みてある。センチメンタリズムを超えた歴史的想起が求められている。


Blogに関して私が考えていること

 2004年は私の周りでもBlogブームだった。この『Theメディア市』最初のエントリでも書いたとおり、私は最初Blogを舐めていた。Blogでは使いづらいウェブブラウザのテキストフォームからページを更新しなければならない。自由な装飾も出来ない。ただ実際に使い始めて気づいたが、簡単に投稿出来る手軽さは何物にも替えられない。アウトプットの量を増やしてくれる。ドキュメンテーションに一役買ってくれるし、ページの更新の回数も増えた。
 とはいえ……
 私がBlogに抱いている感情というのは複雑である。Blog時代の個人的な逡巡を、私の経験を書き起こすところから述べてみたい。
 私が個人でホームページをはじめて公開したのは1997年1月。今も放置しながら続く『完全戦国年表』と一緒に、今は閉めてしまった『MACHIDA PC MAP』もやっていた。町田のパソコンショップを歩いて回り、店舗の情報を載せて、PCショップの動きを「ニュース」として記事にしていた。『MACHIDA PC MAP』は、「個人ニュースサイト」に分類されるWebPageといえよう。
 マスメディアは、行動を起こさずとも企業からプレスリリースは降ってくるし、通信社からのニュース配信もある。だが、個人ニュースサイトは、まず自分で取材してみないことには何もネタがない。そんなわけで、ソフマップ町田店やヨドバシカメラ町田駅前店などのような新規開店時は、足を運んでひたすら頑張ってレポートをした。その甲斐もあり、反響も多く、『MACHIDA PC MAP』はそこそこの成功を収めることができた。それでも、個人ベースでは企業ベースと同等の取材をするのは困難だ。小さいお店なら店員さんと仲良くなって写真撮影を許可してもらえることもある。ただ、大きい店舗となるとそうもいかない。当時『MACHIDA PC MAP』では、人気コンテンツの一つとして価格調査を行っていたが、某量販店は烈火のごとくその行為に怒って、私を恫喝して来た。そんなこんなで、自身の取材だけではどうにもならないことが多い。そこで、企業運営の大手ニュースサイトの記事にリンクを張って、「紹介」ということで乗り切ることになる。この形で有名なのは『セキュリティホールmemo』さんではないだろうか。こういう形だけでも十二分に面白いサイトになるわけだ。そうして多くの「個人ニュースサイト」は繁盛していった。こういった「個人ニュースサイト」は昔から多く日本にもあり、作者の人はそれなりに矜持を持ってやってきた。ここには、マスメディアのサイトに言及して自分の意見を述べるアメリカ発のBlogと同じ源流が垣間見れる。
 ところで、そのBlogというものが、米社会において社会的に認知度を増すことになった出来事というのはやはり2001.9.11の同時多発テロであろうか。「ココログの泉」を見ると、

もっとも blog が価値を帯びたのは2001年9月の全米同時多発テロの時だった。
多くの blog ユーザーが事件に対する意見や感想を blog サイトに投稿し、なおかつ現地の有効な情報を共有するためのネットワーク作りに活用されたのである。

とある。
 日本ではこういった事件が起きた場合、どちらかといえば掲示板で議論がなされたのではないか。2chのような匿名系が近年は栄えているけども、ニフティサーブ(現@nifty)のフォーラムには読むべき記事が多かった。そして、個々人の「個人ホームページ」の中にある「Web日記」にも感想は書き込まれたであろう。もともと日記を書いていた人が、ホームページにその書く場所を移したり、ある程度公開されるもので周りの友人から反響があるものだから書き続けられるといった事情がある。日本の場合、私的なWeb日記を書くような人でも、公的な意見を吐き、その意見も一定レベル以上の質があった。
 いま上に挙げたもののうち、掲示板には今のところ変化は特に見受けられない(Wikiの登場はあった)。しかし、目下のところWebPageは、普通の「個人のホームページ」のみならず、「個人ニュースサイト」「Web日記」までもがBlogに集約されつつある。もちろん、CMSとして利用することにより、WebPage作成・運営の効率化が図れる面が大きいといえるが、文化としての流れもBlogムーブメントに内包されつつあるのは見逃せない動きだ。
 日本には「Web日記」「個人ニュースサイト」というBlog以上に歴史ある文化があった。それが舶来モノのBlog文化に収斂されていく……私は、そのことが悔しいのだ。私がやってきたのは『MACHIDA PC MAP』であって、確かに「個人ニュースサイト」に分類されるかもしれないが、Blogをやってきたのではない。しかし、今同じサイトをつくるのならBlogベースに作るだろう……時系列に情報整理されるものは、いまやBlogとなる、なってしまうのだ。この事実に茫然とせざるを得ない(それでさらに、Blogを自分も現にやっている)。
 ただ、私の古く中学時代からの友人であるmongai氏(かつての「戦国メディア市」でもたびたび名前が出ていた、あの「智秘図」君のことだ)が『Daily mongai』の「Blog時代に想う」というエントリで「Blogは一つの文化圏を形成しファッショナブルだという自負さえ抱きながら、つらつらと記事を書き綴ることが出来る」と書いている。これは突き1本、であった。かつての個人ページが「実用的内容のホームページの影に隠れ、蔑まされていた存在であった。」という観点は私からすっぽりと抜けていた。
 『完全戦国年表』が更新もされていないのにサーチエンジン上位に来るのは、教育関連のリンクと、個人ホームページからのリンクによるところが大きい。インターネットにはじめて接続した人が、Yahoo!Japanで私のページを見つけて、少し経ってから個人のページを作るときに、「趣味-戦国時代」として戦国系ページではただひとつだけ私のページをリンクしてくれているケースが多い。私の作成した『完全戦国年表』は零細な個人のホームページによって生かされているといっていい。そういった個人ページはオフラインでの繋がりのある人のページ以外とはつながりを持てることが稀であった。Blogはそういった小さい個人のWebSiteを十把一絡げに相互コネクトしはじめている。そういった連携によって、Google PageRank時代の大きなパワーとなっている。
 Blogという形態はWWWの現時点究極の進化形態でしかない、という観念が私には強い。しかし、Blog前とBlog後では、コンテンツの電子化という意味では2倍以上の差を感じざるを得ないのは確かだ。それまで、ネットに接続する人でホームページを持つようになるのは全体の1/4なんていわれていたものだが、21世紀になってそれが怪しくなってきた。だが、Blogの登場によって自分のページを持つひとが増えてきたのは事実だ。
※上に引いたエントリで「『Blog』という定義の曖昧さこそがBlogの強みでもあると思う。」とあるが、私も同意だ。それは私の逡巡の原因とも言えるが、Blog化によってWebPageが享受した効果は少なくない。
 どのような形であれ、Web上にコンテンツが増えることは望ましいことだと私は考える。たとえノイズが増えようとも。悔しいからといって地団駄を踏んでいるばかりでは何も始まらない。私のBlogムーブメントへの回答のひとつめが、Blogそのものであるこの「Theメディア市」である。回答のふたつめ以降に関しても、近いうちにお目にかかれると思う。ICT(Information and Communication Technologies)の進化のおかげで、コンテンツを表現できるメソッドが増えたことはなんとも喜ばしい。


青森県岩崎村・十二湖へ行く(2)

十二湖・白神山地

(昨日のエントリ「青森県岩崎村・十二湖へ行く(1)」より続く)
そうこうしているうちに、目的地の青池へと到着した。本当に青い。…いや、季節がらブルーというわけではなく、どちらかといえば藍色で、ところによっては完全に透明なのだが、それでも神秘的な池であることには間違いない( 昨日のエントリの写真を参照)。しばし見惚れる私たち。夏には本当のブルーの池が見られるのだそうだ。
観光駅長さんがご同道した女性連れの記念写真を撮影されている間、役場の女性からお話をさらに伺った。雪が解ければ33湖めぐりのトレッキングもあるらしく、夏には是非にとお誘いを受けた。一つ一つの湖に個性があり、見ていて飽きないのだという。印象的だった言葉は、「地元の私が見ても感動できる。見るたびに湖が違う」 観光に従事する者、その観光の対象となり得る土地を愛せざれば、辛い思いをして豪雪の雪かきなんか出来ようか。雪の残るブナ林という大自然にも感動したが、地元が一丸となって来た人に感動してもらおうというそのプロ魂にはもっと感動した。自然を見に来て、ひとに感動するとは、思いもせなんだ。
青池を十二分に堪能して、もと来た道を戻ることになった。指摘されて、私は木の芽吹きに気がついた。まわりは未だ雪だらけで、コートがあってちょうど良い寒さだったが、生命の息吹が神秘な自然を震わし、私たちのこころをほんのりあたためてくれた。
バスの終点から少し十二湖駅よりへ行ったところには茶屋があり、そこでお手前を頂くこととなった。「ここの水がおいしいんですよ」と観光駅長さんに薦められ水を飲んでみる。旨い。味がしない系のピュアな水で、全く水系が汚れていないことが窺える。やがて干菓子が出され、そのうち薄茶が出された。……非常に美味しい。私が頂いてきたお抹茶では、過去1番の味だった。。「自分で点てて飲むこともあったんですけど、それに比べて全然美味しいですね」と言うと、「お茶をやるんですか?」とびっくりされた。私たちは、しばし大自然の中での安寧に身をおいた。
観光駅長さんが「水の流れる音がいいですね」と言う。眼を閉じればひんやりとした森の懐に抱かれ、水のせせらぎが心地よい。吹き抜けるやや冷たい風と、かわいげなるせせらぎの音が、日々の不愉快な雑念を洗い流してくれるかのようだ。そして、この頃には、この若い女性観光駅長さんの人当たりの良さに感動していた。優しく、親切、そして地元の人たちに愛され、この仕事を一生懸命こなしていこうというひたむきさが、私の心を打っていた。そういった、自分より若いであろうプロ意識の高い人に出会えたことが、なんか光栄のように思えていたのだ。
深浦町役場の方、観光協会から来ていらっしゃるという観光駅長さん……ひとを直向にする大自然があるのだとも言えようか。
十二湖駅へと戻る途中、案内されて「日本キャニオン」をみた。日本とは思えない、日常をはるかに超越した大自然がそこには展開されていた。私は雄大な自然に、普通に感動してしまった。今度は泊まりで来てください、と誘われつつ、雪も残っていない十二湖駅へと戻ってきた。
昔、白神山地は正に人間と自然の共生の場であった。世界自然遺産登録で制約もついたが、その分、観光の芽はさらに出ることとなった。とことん商業化して大勢を呼び込むことが出来ないのが、大自然観光スポットの辛いところだ。しかし、その苦難を撥ね退け、迎え入れた客人が愛する古里である神々しき自然に共感されんことを真摯に願い、信じる情熱がある。ひとをそこまでさせる場所が、ステキでない筈がない。
役場の方は、この十二湖の素晴らしさをWebに上げていきたいともおっしゃっていた。ふと自宅に帰ってから調べてみると、深浦町には合併前も後もWebSiteがあるのだが、旧・岩崎村は間借りのかたちの公式ページだったようだ。今回、タイトルを敢えて「青森県『岩崎村』・十二湖へ行く」としたのは、今まで十二湖を盛り立ててきた岩崎村という存在をWebに遺しておきたくおもったからだ(深浦町の観光課の方も、もとは岩崎村に勤めておられたようだ)。まずは、感動を自分のSiteに遺しておくべく、2回にわたって旧・岩崎村、今の深浦町にある十二湖探訪記をここに掲載した。
Uターンしてきたリゾートしらかみ3号は再度十二湖駅に停車した。私が乗り込むと列車は十二湖駅を発車し、観光駅長さんは笑顔で私たちを見送ってくれた。
さて、リゾートしらかみ号はここからもお祭りだった。列車は千畳敷駅で10分ほど小停車した。千畳敷駅を降りるとすぐ、珍しい岩場の海岸が列車客を迎えてくれる。千畳敷の異風景は私を悦ばし、海の香りは心にゆっくり染み込んだ。鯵ヶ沢を過ぎると、海沿いでない区間を走る。それでも、まだ白銀の大地に聳え立つ岩木山に映える夕日が美しかった。津軽三味線演奏もあり、最後までお祭り列車だ。
日本全国、鹿児島から北海道まで見て回ってきたが、ここまで魂が揺さぶられた土地はなかった。青森県深浦町、十二湖は、100%人に薦められる場所である。東京からなら、東北新幹線「はやて」で八戸まで行って特急「つがる」で弘前から、あるいは秋田新幹線で秋田まで行って、そこから「リゾートしらかみ」号に乗るのが手っ取り早い(実際、東北新幹線八戸開業の時に「はやて」宣伝でJR東日本が行なった北東北の大プッシュと、「リゾートしらかみ」号の創設後、客数は増えたのだそうだ)。十二湖駅で降りれば、凛々しい観光駅長の心温まる出迎えがある。車で行くのも、美しい海岸沿いの道をドライブできそうだ。泊まりなのであれば、今度は車で行ってみたい。
ふと思いつきで立ち寄った場所で、インスパイアを受けること。これがあるから、旅はしなければならないなと思う。