TBS「4月改編」早すぎる発表波紋…みの起用など::ZAKZAK
またTBSが我慢できなかったのかという印象だ。「ウォッチ!」が上向きならそのまま嘗ての「めざましテレビ」のように我慢し続ければ定着するのに、みのもんたをウンと言わせて嬉しくなってすぐ発表。なんか、かつて露木茂氏を司会に抜擢した「おはよう!グッデイ」を思い出す。みのもんたが「サタデーずばッと」で調子いいというが、一体みの新朝番組はどこから客を奪うのか? まずめざましから若い層は取れないし、やじプラ見ているコアな層は取れまい。すると、ズームかNHKから奪うしかないが、そんな視聴習慣を変えてまでみのにスイッチする人間、家庭がどれほどいるのか。
ぐだぐだの昼改変は良いとして、問題は「ニュースの森」撤廃→ワイド化だ。
「ニュースの森」は、「民放のNHK」と謳われるようになり、「報道のTBS」と称されるようになった端緒となった番組「JNNニュースコープ」を引き継ぐ番組だが、先のオウムビデオ事件での対応(「ビデオを見せた事実はない」と主張」)や、その前のTBS自身をめぐる報道で自身に甘い報道をして、まさに「報道のTBSの転落」を見せ付けてくれた番組である。
しかし、私はこの番組の歴代オープニングテーマが好きで、冒頭だけは良く見ていた(笑)。関東を離れてからは、地元ローカルニュース番組の出来が良く、これと併せて見ることも多くなった。
何より、「NNNニュースプラス1」と違い、夜23時代のニュースで使いまわされることは少ないし、あの時間帯のニュースでは一番硬派だろう。関東にいた頃見てた限りでは、18時21分以降に社会問題を比較的よく扱う番組だった気がする。また、関東ローカルニュースに一番力を入れていたのも、「ニュースの森」ではなかっただろうか。
「ニュースの森」は、関東圏では唯一の、全国ネット開始時間=関東での開始時間のニュース番組である。関東では生活情報番組化したニュース番組の裏で、TBSはドラマ再放送をやって、その時間帯1位になることもあったのではないか。「ダブル・キッチン」の再放送では、その週のドラマ部門トップ10に入っていた。TBS系列の地方局では、「どさんこワイド212」のような日本テレビ系列の地方ワイド番組に悉く惨敗し、「水戸黄門」の再放送で張り合っていて、これはこれで正しい選択だと思う。それが、16:54開始でしかも17時代に全国ネットをするという情報もあり、もし仮にTBSが「JNN」を冠にかけてしまえば、「JNN協定」でTBS系列局は放送せざるを得なくなる。そんなことをしたらTBS系列の地方局は壊滅だろう。ニュースで地元ワイドに勝てるわけがない。自然、18時18分からの地元ローカルニュースの低迷に繋がること必定だろう。
正直、関東での17時代は芸能情報を扱わなければ視聴率は取れないと云われて久しい。「Jチャン」が堅調なのは奇跡的だが、「スーパーニュース」が撤廃した3時代ワイドショーの内容をここに持ってきていて断然強い。せっかく地域密着、商店街情報を扱い、「地元ワイド」をやってくれていた「ニュースプラス1」(当時 18時代No.1)が「エンタメ5」なんてやりだしたのも、17時代はスーパーニュースに屈したためだろう。
9月リニューアルの小倉アナと池田キャスターはいい感じで、ポスト杉尾を担える逸材だっただけに(交代なら)残念である。あと、服部氏のオープニングテーマが好きだったのにな… 17時代にTBSのドラマを見ていたひとは、きっとスーパーニュースかプラス1に難民として流れることだろう。
わたしは、TBSが嫌いではない。報道のスタンスに疑問を抱かせることも多いが、海外支局のネタは民放ではズバ抜けている。地方局が東京に上げてくるネタは中々の上物が多い。なにより、ドラマは筋書きで見せてくれるものをこれまで多く見てきたし、家族皆で見ることの出来るバラエティといったらTBSだろう。
だが、正直来年のTBSは、テレ朝に抜かれること必至な感じだ。別にわが道を行くのはかまわないが、死に至る病にだけはなってほしくない。
と、こんなことを勝手に心配するのが、テレビの愉しみってもんである。
「旧Theメディア市」一覧
「東京は毎日、祭りみてえだ」
私がまだ生活基盤を東京においていた頃は、あのつんく♂が嘗て「LOVE論」(新潮社;現新潮OH!文庫)において、“いなかの子にすれば「東京は毎日、祭りみてえだ」って思っても全然不思議じゃないようなテンションの高さだ。”と書いていたのが、どうもピンとこなかったものだ。しかし、地方の村に移り住んだ今となっては、それが全くもって実感できるようになった。
東京に帰ると、まず東京にある駅の人の多さを感じずにはいられない。座れない電車、ぞろぞろと同方向に歩く密集した群集、そして、高等種別列車で通過する駅の人の多さ。さらに、各駅ごとに拡がる街の灯りを見るにつれ、東京が実は毎日ミレナリオだということを感じずにはいられない。
人の多さと灯りだけではない。決定的な違いは、街に流れる音楽である。有線から流れる音楽は地方都市でもあるが、独特のメロディーの有無が決定的に違う。
私が最近、往時を懐かしむままに購入した2枚のCDは、それを痛感するに十分なものだった。
秋葉原や新宿西口は音楽の宝庫である。エレクトリックパークから流れるイケイケドンドン、ちゃんちゃんばらばらちゃんちゃんばらばらの音楽は、まさに東京、大阪特有のものである。このCDには、ヤマダ電機やコジマのものも含まれ、それらは地方でも流れている。しかし、そういった郊外の家電量販店は、密閉した店の中でのみ流れるメロディーであって、秋葉原や新宿西口のように、開放的な店構えから洩れ伝わる音楽に乗せられるままに店の中に引き込まれるといったことは無いように思える。
私がとくに好きなのは、「Hello, Sofmap World」だ。もともと、ソフマップが好きなこともあるが、歌詞が人類愛に満ち溢れるパソコンショップ離れしているところが良いではないか。店の中では、さらに様々なバリエーションもあり、全く飽きさせない。「洗脳ソング」とも揶揄されるこの破壊力が、私は大好きなのである。
また、それら個性的な街と街をつなぐ鉄道も、東京は違う。
JR東日本が、発車ベルをメロディにすると聞いて、当初は幼心に違和感を覚えたものだった。しかし今では、京浜東北線や中央線に乗ってドアが開くたびに音楽が流れるのは、華やか極まりないと感じざるを得ない。北千住駅や蒲田駅など、ごくたまにある個性的な発車ベルのなる駅を通り過ぎるときは、読んでいた文庫本を到着前にいったん読むのをやめ、そわそわしだしてしまう。鳴り出すと、「来たなア」という満足感でいっぱいになる。そして、結局ベルでもメロディーでもやっている駆け込み乗車のあのスピード感が、都市のせわしなさを思い起こさせてくれる。スローライフなカントリーライフからすると懐かしみが零れてくる。こんな愉しみは、JR東日本の首都圏輸送区間でしか味わえない楽しみだ。
JR東日本 駅発車メロディーオリジナル音源集を買ってしまったのは、鉄道好きの私の為せる業だが、最初はあまりに綺麗なメロディーとなってしまった発車ベルに違和感があった。CDと駅のスピーカーでは聞こえ方がやはり違う。だが、発車ベルがこんなに音楽性あるメロディーラインをかましていてくれたことに、驚きの念を禁じえなくなっていった。下りホームに多さげな「see you again」や、中央線特急ホームの「美しき丘」、東京で聞くものではないが、はやて開業で使われるようになった「風と共に V2」あたりが、私の中に風となって吹き抜けていくメロディーである。
ともすれば気分が落ち込むこともある都会暮らし。しかし、街に出れば否が応でも、灯りと音が励ましてくれる。東京に生きることは、明るい人生を強制させてくれるところがある。
だが、あまり賑やかなところに住み続けるのも難しい。地方の住まいには、「静粛」という至高の音楽が流れている。この価値もまた、棄て難きものである。どっちも欲しい、これでは駄々っ子ではないかと自分をほほえましく嗤わずにはいられない。
坂はおきつくございませんか、ええ多少きつい方が登り甲斐がありますもの
司馬遼太郎の「坂の上の雲」を先日読了した。面白くなかった。
…いや、「面白くない」はあんまりだという感が私とてある。しかし、この程度の断定を修辞として行わなければ、「Theメディア市」はメディア市足り得ない。司馬作品の中でも特に圧倒的支持者を集めるこの作品、いつだったかの文藝春秋のアンケートでは多く経営者たちが絶賛していて、人気ランキング上位だったと思う。しかし私は、作品の面白さとしては「竜馬がゆく」「国盗り物語」に及んでいないと感じたのだ。
何故か。それは、「坂の上の雲」では人間ではなく国家を描いているが故である。司馬遼太郎作品というのは、基本的に一人の人間、それも男の生涯を淡々とながらも考察深く、史料で足りない部分は小説家の想像によって補うことによって、堂々と描いて見せてくれるのが特徴である。
しかし、「坂の上の雲」ではそうではない。確かに表向きは同郷の秋山兄弟と正岡子規が主人公という扱いだが、3,4巻あたりからそうとも言い切れなくなる。日露戦争を描くには、この3人だけでは追いきれないのである。正岡子規に至っては物語からいなくなってしまうわけだし。仕方ないので、乃木・伊地知から明石、児玉、東郷、そしてステッセルやロジェストウェンスキーに至るまで、視点をあちこちに移さざるを得ない。その点では一大叙事詩となることに成功しているが、感情移入がし辛い構造となってしまっている。
さらに言えば、この小説は司馬作品にしては女っ気がない。秋山兄弟が晩婚主義者ゆえ仕方ないのかもしれないし、ある意味では一番女性が出てこない(表の裏にさえも)時代だといえばそれまでだろうが。司馬作品は、魅力的な男に対して、それを取り巻く個性的な女性からの視点が提供されることが多く、その視点こそが面白みを増すのに貢献しているのだ。私が「竜馬がゆく」を評価しているのは、おりょう、さな子、お田鶴さまという女性らがあまりに際立っているゆえである。逆に、「燃えよ剣」の評価が世間より下がってしまっているのは、お雪の魅力がやはり土方歳三の魅力に勝てずに終わってしまっているが故といえる。
同じ時代を描いた作品でも、「殉死」はきっちりと乃木希典を真正面から捉えている。「殉死」の方が「坂の上の雲」より印象に残る作品である。最期のシーンでは妻の心理にも筆が及ぶ。女から見た男の視点は、やはり信用できる。
「坂の上の雲」は一人の男を描いてみせ、その「カッコ良さ」を描いた類の小説ではない。書かれたのは、「ユナイテッド・ジャパニーズ」なのである。多くの人がこの一大叙事詩を面白いというのは分からなくはない。掛けているBETが違うのだ。「国盗り物語」で松波庄九郎が国盗りに失敗しようとも自身がこの世に存在している気はしても、もし日露戦争に負けていれば己の身は存在していないと感じるのだ。だから、綱渡りながらも知恵と勇気で困難を乗り切る物語に心が震えるのである。己の命を掛けたエンタテインメントが面白くないわけがあろうか。
だが、私はやはり司馬作品には一人の「生き様」を期待してしまっていたようだ。最初からノンフィクションとして読んでいれば良かったのかもしれない。単行本第4巻のあとがきにある「この作品は、小説であるかどうか、実に疑わしい」という文言は、極めて示唆的である。
数少ない収穫は、秋山兄弟の勉強っぷりである。丹念な書籍のサーベイが日本の運命を克ったという点は渡部昇一の「知的生活の方法」に通ずるものがある。
「坂の上の雲」は面白くない。だが、それは英雄(ヒーロー)の時代ではない時代を描いたがためのさだめかもしれない。しかし、ちっぽけな個人が、それぞれの場所で己の最善を尽くせば、時代が創られることを示してくれている。その意味では、己もいっちょやってみっか、と奮い立たせてはくれるのである。
神話の時代は最早過ぎた。だが、日常を生きるには十分に楽しい舞台が我々には用意されているのだ。