私がまだ生活基盤を東京においていた頃は、あのつんく♂が嘗て「LOVE論」(新潮社;現新潮OH!文庫
)において、“いなかの子にすれば「東京は毎日、祭りみてえだ」って思っても全然不思議じゃないようなテンションの高さだ。”と書いていたのが、どうもピンとこなかったものだ。しかし、地方の村に移り住んだ今となっては、それが全くもって実感できるようになった。
東京に帰ると、まず東京にある駅の人の多さを感じずにはいられない。座れない電車、ぞろぞろと同方向に歩く密集した群集、そして、高等種別列車で通過する駅の人の多さ。さらに、各駅ごとに拡がる街の灯りを見るにつれ、東京が実は毎日ミレナリオだということを感じずにはいられない。
人の多さと灯りだけではない。決定的な違いは、街に流れる音楽である。有線から流れる音楽は地方都市でもあるが、独特のメロディーの有無が決定的に違う。
私が最近、往時を懐かしむままに購入した2枚のCDは、それを痛感するに十分なものだった。
秋葉原や新宿西口は音楽の宝庫である。エレクトリックパーク
から流れるイケイケドンドン、ちゃんちゃんばらばらちゃんちゃんばらばらの音楽は、まさに東京、大阪特有のものである。このCDには、ヤマダ電機やコジマのものも含まれ、それらは地方でも流れている。しかし、そういった郊外の家電量販店は、密閉した店の中でのみ流れるメロディーであって、秋葉原や新宿西口のように、開放的な店構えから洩れ伝わる音楽に乗せられるままに店の中に引き込まれるといったことは無いように思える。
私がとくに好きなのは、「Hello, Sofmap World」だ。もともと、ソフマップが好きなこともあるが、歌詞が人類愛に満ち溢れるパソコンショップ離れしているところが良いではないか。店の中では、さらに様々なバリエーションもあり、全く飽きさせない。「洗脳ソング」とも揶揄されるこの破壊力が、私は大好きなのである。
また、それら個性的な街と街をつなぐ鉄道も、東京は違う。
JR東日本が、発車ベルをメロディにすると聞いて、当初は幼心に違和感を覚えたものだった。しかし今では、京浜東北線や中央線に乗ってドアが開くたびに音楽が流れるのは、華やか極まりないと感じざるを得ない。北千住駅や蒲田駅など、ごくたまにある個性的な発車ベルのなる駅を通り過ぎるときは、読んでいた文庫本を到着前にいったん読むのをやめ、そわそわしだしてしまう。鳴り出すと、「来たなア」という満足感でいっぱいになる。そして、結局ベルでもメロディーでもやっている駆け込み乗車のあのスピード感が、都市のせわしなさを思い起こさせてくれる。スローライフなカントリーライフからすると懐かしみが零れてくる。こんな愉しみは、JR東日本の首都圏輸送区間でしか味わえない楽しみだ。
JR東日本 駅発車メロディーオリジナル音源集を買ってしまったのは、鉄道好きの私の為せる業だが、最初はあまりに綺麗なメロディーとなってしまった発車ベルに違和感があった。CDと駅のスピーカーでは聞こえ方がやはり違う。だが、発車ベルがこんなに音楽性あるメロディーラインをかましていてくれたことに、驚きの念を禁じえなくなっていった。下りホームに多さげな「see you again」や、中央線特急ホームの「美しき丘」、東京で聞くものではないが、はやて開業で使われるようになった「風と共に V2」あたりが、私の中に風となって吹き抜けていくメロディーである。
ともすれば気分が落ち込むこともある都会暮らし。しかし、街に出れば否が応でも、灯りと音が励ましてくれる。東京に生きることは、明るい人生を強制させてくれるところがある。
だが、あまり賑やかなところに住み続けるのも難しい。地方の住まいには、「静粛」という至高の音楽が流れている。この価値もまた、棄て難きものである。どっちも欲しい、これでは駄々っ子ではないかと自分をほほえましく嗤わずにはいられない。
「chief」一覧
ソニーという企業
ソニーという企業は疲れる企業だ。アンチソニーと熱狂的ソニーファンのギャップが激しすぎる。うかつに褒めることも批評することも出来ない。まるで、カール・マルクスみたいである。
私の家には、ソニー製品が意外とない。カセットテープレコーダーがソニー製だったくらいか。だが、このカセットテープレコーダーはVHFのテレビが全部聞ける優れもので、首都圏にいたころはNHK総合テレビ1チャンネルから東京12チャンネル(テレビ東京)まで全部音だけ聞けた。テレビが1台しか家になかったころはかなり重宝した。ソニーのCMは私が幼稚園のころは少し怖かった思い出がある。だが、インパクトには残るし、カセットテープレコーダーについているソニーのロゴは好きだった。
初めてソニー製品を所有したのはHi8のビデオカメラを買ったときだ。ヨドバシカメラの店員に「ビクターのVHSCなんて糞ですよ、キャノンのにしなさい」と“脅迫”されたのだが、キャノン製品のビデオカメラはピントあわせの方法に疑問があったのでソニーのにしたのだ。このカメラは、良かった。手堅い機能に適度な使い勝手。それに、ソニー製品はやはり使っているとウキウキする。姫路城で撮影していたら、外国人に英語でビデオカメラについて尋ねられた。やはり、世界のソニーである。松江城天守の最上階でビデオカメラが転倒し、ファインダーがぐらぐらになったときも、ヨドバシに持ち込んだら「無償で」修理してくれた。
だが、不満はあった。ボタン類がへぼいのだ。すぐ傷がつくし、はっきり言って押しにくいと思う。この点だけが不満で、ソニー製品を以後買う機会は今のところない。だが、それは買うべき金とモノがないことに起因しているだけで、私は積極的なアンチソニーというわけではないだろう。
ビデオカメラはいまでも現役だし、風雨の中でも耐えてきた点では、フジフィルムのデジカメ以上の耐久性だ。ソニータイマーは少なくとも私のものには載っていなかったようだし、たぶん他の製品も多くのメーカーよりモノそのものの耐久性は高いだろう。私のビデオカメラには搭載されていないが、バッテリ時間が後何分か教えてくれる「インフォリチウムバッテリー」など、心遣いが細やかなギミックも多く、古き良き日本メーカーを代表していると言えなくもない。
アンチソニーの人間は徹底的にアンチソニーである。それに合わせて会話をしていると、熱狂的ソニーファンと話をするときにボロが出てしまうことが多い。ソニータイマー話で仲間内で盛り上がり、それを引きずって、「(Panasonicの)Let’sNoteってどうなの」と聞いてきた友人に「ソニータイマーはないけどね」と答えたら、かなりムッとされたのを覚えている。彼もまたソニーファンであった。これからは注意せねばなるまい。
まあ、VAIOのキーボードはオレ好みではないが、サイバーショットのノイズの少なさには感動した。私には是々非々のようである。
…と思っていたら、私はApple製品の批判をされるとムカッとすることが多いようである。Appleファンというのは(私の周りでは)結構批判を織り交ぜApple製品を使っている人が多かったようだし、私も文句たらたらのはずなのだが、なんか、人に言われるとムカッとすることが多い。よく分からないが、これは愛なのだろうか。
坂はおきつくございませんか、ええ多少きつい方が登り甲斐がありますもの
司馬遼太郎の「坂の上の雲」を先日読了した。面白くなかった。
…いや、「面白くない」はあんまりだという感が私とてある。しかし、この程度の断定を修辞として行わなければ、「Theメディア市」はメディア市足り得ない。司馬作品の中でも特に圧倒的支持者を集めるこの作品、いつだったかの文藝春秋のアンケートでは多く経営者たちが絶賛していて、人気ランキング上位だったと思う。しかし私は、作品の面白さとしては「竜馬がゆく」「国盗り物語」に及んでいないと感じたのだ。
何故か。それは、「坂の上の雲」では人間ではなく国家を描いているが故である。司馬遼太郎作品というのは、基本的に一人の人間、それも男の生涯を淡々とながらも考察深く、史料で足りない部分は小説家の想像によって補うことによって、堂々と描いて見せてくれるのが特徴である。
しかし、「坂の上の雲」ではそうではない。確かに表向きは同郷の秋山兄弟と正岡子規が主人公という扱いだが、3,4巻あたりからそうとも言い切れなくなる。日露戦争を描くには、この3人だけでは追いきれないのである。正岡子規に至っては物語からいなくなってしまうわけだし。仕方ないので、乃木・伊地知から明石、児玉、東郷、そしてステッセルやロジェストウェンスキーに至るまで、視点をあちこちに移さざるを得ない。その点では一大叙事詩となることに成功しているが、感情移入がし辛い構造となってしまっている。
さらに言えば、この小説は司馬作品にしては女っ気がない。秋山兄弟が晩婚主義者ゆえ仕方ないのかもしれないし、ある意味では一番女性が出てこない(表の裏にさえも)時代だといえばそれまでだろうが。司馬作品は、魅力的な男に対して、それを取り巻く個性的な女性からの視点が提供されることが多く、その視点こそが面白みを増すのに貢献しているのだ。私が「竜馬がゆく」を評価しているのは、おりょう、さな子、お田鶴さまという女性らがあまりに際立っているゆえである。逆に、「燃えよ剣」の評価が世間より下がってしまっているのは、お雪の魅力がやはり土方歳三の魅力に勝てずに終わってしまっているが故といえる。
同じ時代を描いた作品でも、「殉死」はきっちりと乃木希典を真正面から捉えている。「殉死」の方が「坂の上の雲」より印象に残る作品である。最期のシーンでは妻の心理にも筆が及ぶ。女から見た男の視点は、やはり信用できる。
「坂の上の雲」は一人の男を描いてみせ、その「カッコ良さ」を描いた類の小説ではない。書かれたのは、「ユナイテッド・ジャパニーズ」なのである。多くの人がこの一大叙事詩を面白いというのは分からなくはない。掛けているBETが違うのだ。「国盗り物語」で松波庄九郎が国盗りに失敗しようとも自身がこの世に存在している気はしても、もし日露戦争に負けていれば己の身は存在していないと感じるのだ。だから、綱渡りながらも知恵と勇気で困難を乗り切る物語に心が震えるのである。己の命を掛けたエンタテインメントが面白くないわけがあろうか。
だが、私はやはり司馬作品には一人の「生き様」を期待してしまっていたようだ。最初からノンフィクションとして読んでいれば良かったのかもしれない。単行本第4巻のあとがきにある「この作品は、小説であるかどうか、実に疑わしい」という文言は、極めて示唆的である。
数少ない収穫は、秋山兄弟の勉強っぷりである。丹念な書籍のサーベイが日本の運命を克ったという点は渡部昇一の「知的生活の方法」に通ずるものがある。
「坂の上の雲」は面白くない。だが、それは英雄(ヒーロー)の時代ではない時代を描いたがためのさだめかもしれない。しかし、ちっぽけな個人が、それぞれの場所で己の最善を尽くせば、時代が創られることを示してくれている。その意味では、己もいっちょやってみっか、と奮い立たせてはくれるのである。
神話の時代は最早過ぎた。だが、日常を生きるには十分に楽しい舞台が我々には用意されているのだ。