WWDC 2005基調講演速報::PC Wacth
世の中、何があっても驚いてはいけないのだと思う。昔、細川政権の第一党だったはずの日本社会党が、羽田政権になって連立を離脱すると「ジパングあさ6」のニュースコーナーで聞いたとき「嘘を申すな!」と本能寺の変の時の織田信雄ばりに寝ぼけて思ったものだ。多感な時期に、そういったアクロバティックな有為転変を度々目撃し、私のハートは少しばかり鍛えられた気がする。
でも、やはり「MacOSXのIntel版がApple社内で密かに飼われていた」なんて事実を聞くと、息を詰まらせながら驚くより他にない気もする。
DTPを少々しており、正直なところMac OS 9からMac OS Xへの移行でさんざん苦労させられた。でも、はっきり言えばこのOS Xへの「移行」は必要性を認められるものだった。なにより、68kからの移行に比べれば屁でもなかった気がする。
68k MacからPowerPCへの移行期はもっと凄惨だった記憶がある。長らくパッケージソフトには「68k、PowerPC両対応」だの、片方しか対応していないだのひと悶着もふた悶着もあった。それに比べればOSXだなんて諦めがついたものだ。
今回も確かに仕方ない、理解できない理由がないわけではない。PowerBookG5だなんて無理ではないかもしれないが無茶だったんだろう。現行PBですらアルミが温かいわけだし。かつてのiMacだなんて扇風機着用じゃないと使えるもんではなかった。PPCの発熱のすごさは確かにある。
……だけども。
例によって(意外とCocoaアプリケーションなんてまともそうだけど)、二つのアーキテクチャで動くか動かないか心配しないといけない時代がやってきたのだ、「またしても」。OS Xへの引越しの疲れも取れないままに。そう考えると、今PPCアーキテクチャのMacを買うのも躊躇われる(使えなくなる時期がいずれ訪れる)し、IntelアーキテクチャのMacも出た当初はアプリケーションが揃わない可能性もある(じきに追いついていくのだろうが)。実際には問題なさそうな見通しではあるけども、「心配」というのはしばらくMac購入のネックとしてつきまとうことであろう。
それから、前にも書いたけど今のPowerMacの魅力って安価で超高性能なマシン性能にあったはずで、64ビットでパワフルなG5デュアルに皆魅了されていたはずなんだけども…。あのリーナスだってもらい物とはいえMacを(まあLinuxを入れて)使って開発しているというのに。もう、ハードウェア的な魅力でMacが選ばれるってことはなくなるんではないか。
ついでだが、OS Xは描画パワーをくうので、PCと同性能だったらWindowsの方がきびきび動くんではないか? したがって、WindowsPCとコスト・性能で勝負するのはきついのではなかろうか。指摘しているところが少ないようで少し気になった。
いくらPowerPCがゲーム機向けで高性能と言っても、クロックアップしていかないとユーザにそっぽ向かれるコンピュータでは採用がきついという理由を考えれば、やむをえん選択だったのだろう。AMDでなくIntelをパートナーとして最初に選んだのも、Appleのブランド保持戦略からなんでしょう。安価なWindows機より多少高くなるのはMacなら仕方ないよな。
Windowsとのデュアルブートは出来ないって予測が立てられてますが。ただ、現実にはPPCのMacにLinuxを入れるってのは良く行われていることで、インテルアーキテクチャのMacにどんなもんが入れられるか、考えるとわくわくもする。
Macユーザーの多くはどんなことがあってもAppleについていくわけだ。昔OS8・9のころに、Macユーザは阪神ファンに例えられることもあったが、どうなんだか。
コンピュータの歴史は常に激動だ。まだまだ、神話の時代だということか。
「雑記」一覧
私と東京読売巨人軍
私は昔「MACHIDA PC MAP」で書いたとおり、巨人ファンである。しかし、生まれたときからの巨人ファンというわけでは、ない。
幼い頃の私は、その日ヤクルトを応援していた。ヤクルト-巨人戦。なぜ巨人じゃなくてヤクルトを応援していたのか、はっきりしたことは分からない。だが、いつも飲んでいるヤクルトとその語感に引かれたのだろう。母は筋金入りの巨人ファンであった。昔は巨人ファンだと「王・長嶋しか知らないのかよ」と揶揄されることもあったようだが、母は今も昔も巨人ファンである。ヤクルトを応援する私、巨人を応援する母。試合はヤクルトが追い込まれていた。必死に声をからしてヤクルトを応援する私。しかし、ヤクルトは負けた。大声で泣き叫ぶ私。そんな私に、ニヤニヤしながら母は言い放ったものだった。「だから巨人を応援すればよかったのに」 その一言が、私を巨人ファンにした。たまたまだろうが、巨人ファンになってから数試合は巨人が勝っていたように思う。
85年の阪神優勝は良く覚えていない。だが、広島と中日がやったら強い時期で、広島戦、中日戦には憂鬱になったものだ。
朝、「ズームイン!朝!!」のプロ野球いれこみ情報は面白かった。広島(広島テレビ)・中日(中京テレビ)の勝ったときの中継の憎らしさ、負けたときの誇らしさ。そして、阪神(よみうりテレビ)の負けたときの気の張りよう、勝ったときの喜びようは勉強になった。
小学生のときに住んでいた座間は、横浜(当時は大洋)ファンはそれほど多くなく、周りは巨人ファンだらけだったと思う。父に連れられ生まれて始めて東京ドームに巨人を応援しに行ったのも小学生のときだ。
だが、FA制度が導入され、無邪気に選手を欲しがる監督と金万球団の資金力が一緒になったとき、巨人軍は真の意味でヒール(悪者)となってしまったと思う。松井を引き当てた長嶋監督の強運はともかく、FAの落合はいらないと最初思ったものだ。だって、原がまだいるじゃん、と。
中学からは東京の学校だったが、はっきり言って周りはアンチ巨人だらけだった。大の巨人ファンのM君が学校に来るまでの数分、私は毎朝筋金入りのアンチ巨人であるS君の猛攻に耐えなければならなかった。
私は、巨人ファンとしてはゆがんでいると思う。巨人ファンは皆ゆがんでいるだろ、という指摘はそのとおりかもしれない。負け続けても耐え続けて、優勝の美酒の味を正しく味わう阪神ファンに比べれば。スタンスとしては、負けるとメガホンを外野に投げ込む俗悪なファンと一緒だろう。チャンスで打てない打者には容赦なくテレビに罵声を飛ばした。「清原西武帰れ」「江藤広島帰れ」…FAで去られた先の球団のファンの方が聞いたら私は刺されるであろう。基本的に若手も同じ。「死ね」「逝ってよし」「2軍帰れ」などの罵声は当然である。だって、こんだけ金を積んでいるのだから、ぶっちぎりで優勝しなければ詐欺じゃないか。このあたり、巨悪の根源ナベツネ前オーナーとシンクロナイズド出来てしまっている感はある。その罵声をかけない例外は、松井秀喜と長嶋終身名誉監督だけであった。これはジーコにもいえると思うのだが、基本的に長嶋監督は神であり、その采配は(たとえ客観的に見ればヘボ采配でも)絶対である。悪いのはひたすらに選手の方である。なので、その神がかり的ヘボ采配によってしくじる選手には容赦なく罵声を浴びせていた。テレビに向かって。…これは、母もあまり変わらなかった。父は呆れていたと思う。ひとたびホームランが出れば雄たけびを上げる。おかげで日テレのアナウンサーが絶叫していただなんて、シドニー五輪サッカーの時に明石家さんまが指摘するまで気づかなんだものだ。
野球というものはファンとなる球団を持ってして、他球団のことも見えてくるというもの、広島や中日、ヤクルトは資金のやりくりをしながらいいチームに仕上がっていて、いい勝ち方をされたときにはやられたなァと素直に思える。横浜は「大ちゃん」が魅力的だったのもあるが、大魔神佐々木を打ち崩すのが快感だった。だから、8回までにリードして来れた時はやすらぐものだ。阪神は強くなって、昔のように貯金シリーズと思えなくなった。7時に帰って野球中継をだらだら見ながら過ごすのは至福の一時だ。
巨人はテレビで全国放映されるせいもあって、東京の球団ではなく、全国の球団となってしまっている面はある。たしかにゆがんでいる。ただ、巨人だけバッシングされ続けるのをみていると、純粋に巨人が好きな子供たちが不憫な気もしている。あまり謂れのない巨人批判は、「巨人中心」の醜悪な流れを維持し続けるだけだろう。
翻って私には、その巨人に負けない愛情が注げそうなチームが現れた。「後出しジャンケン野郎」楽天イーグルスである。ライブドアの方が先に名乗りをあげてくれて、それはそれは感謝にたえないが、やはりそれでもか弱い東北のチームを見ていると、東北在住の私にとってはつい応援してしまう、しまわざるを得ない風土がやはりこの地にはある。中畑清が「SportsMAX」(NTV系)で「東北の人は負け続けても応援し続ける」と言っていたが、それは真だと感じる。なにより、巨人じゃないチームはこんなにもチームとの距離が近いのかと少しばかり驚いた。あれだけのチームでぶっちぎり最下位にどれだけならずに済むか、これからずっと温かく見守っていきたい。
救急車をタクシーと思うべし
横浜市にある大学病院に行く機会があった。すると、そこにはこんな張り紙がはってある。「救急搬送の6割弱が軽症者です。救急車を他に求めている人がいます」 思わず、私は憮然とした。
……と、ここまでお読みになって、隆慶一郎のエッセイ集・時代小説の愉しみ(現講談社文庫)にある「救急車をタクシーと思うべし」に限りなく近い逸話であることを想起されたかもしれない。実際、私もこの短編を読んで救急車はタクシーでなければならないと強く思うようになったからだ。
…まだ読んでいない方で、上記の考えに異論のある方はぜひ1度手にとって読んでいただきたいのだが、大筋は救急車を呼ぶことを「みっともない」と考えた筆者の知人の母が、夜中に喘息の発作を起こした筆者の知人に、朝になったらタクシーを呼ぶから我慢をするよう諭し、結果として筆者の知人が亡くなってしまったという実話である(但し、病院搬送が遅れたことと死亡したことに因果関係があるとは断定はできない)。通夜の席で、知人の母が「私が殺したんです」と泣き叫ぶ姿が描かれている。掲載をしていた新潟日報において、先の張り紙同様に「困る救急車のタクシー利用代わり」という記事が掲載され、それが隆慶のトリガーとなって掲載されたエッセイのようだ。
だいたい、一般人にとっては「胸が非常に締め付けられる」「呼吸が出来ない」「熱が40度ある」といった症状でもって救急車を呼ぶのであり、実際にそういった症状だったけども「軽症」で医学的に分類されるもので直ぐに帰れたというのであれば慶賀すべきことではないか。少なくとも、そういったケースが6割弱の軽症者の大半でなないのか? お年寄りが安易に軽症で救急車を呼ぶケースもあるのだそうな。だが、横浜市のような都市圏(郊外部とて都市圏である)において、老人だけの住まいが車を持つことはあまり考えられない。地方と違い、老人が車なしでは生きていけないような環境ではないのだ。だとすれば、老人専用の救急車をつくろうとか言う発想の方がまだ現実的解決策であって、フラットに「軽症者の分際で救急車使うな馬鹿氏ね」というのは、なんという野蛮であろうか。
「軽症なら呼ぶな」などと救急車を管理する側が言えば、市民は、たとえ重症でも「軽症かもしれない」と考えるようになるものである、件のポスターを作成した人間はそこまで思いが至らなかったのだろうか。それで病院搬送が遅れれて人命を失うような仕儀になれば、ポスターを作成・掲示した彼ら彼女らは殺人者ではないのか。
と、ここまで書いていて私はいったん筆を折ってしまった。Googleで検索して行き着いた横浜市立大学医学部・看護学部の学園祭での発表「検証!!横浜市の救急医療」のうち、現場の方のご意見を見て、私は憮然を通り越して激しいショックを受けてしまったがゆえである。これは救急現場従事者の心のケアを考えなければならないのでは、という程度に実際はひどいようだ。“救急車をタクシー代わりにつかう輩(あえて患者とは言わない)”という言葉が出てきた上に、多くの方が救急車有料化に賛成されている。※この有益な企画を遂行されページを公開してくださっている横市大の有志の方に敬意を表します。意見を寄せられた医療関係者の方も、お忙しい中状況を訴えるために学生に協力された姿勢は立派であると考えております。
しかし、それでも件の張り紙によるリスクはあまりに大きいと指摘せざるを得ない。
そもそも「1割の重症救急搬送者が6割の軽症救急搬送者のせいで殺される」という表現のしかたは、数字を出して脅迫をかける新興宗教のマインドコントロールと何の代わりもない。重傷者で救急車を呼ばずに命を落とした人と、救急車を呼んだのに軽症者を搬送していたせいで救急車を使えず亡くなった人では後者の方が多いのだろうか? 状況を訴えるのであれば、隙のないような根拠を示していただきたい。あなた方のいまの広報方法では、実際の状況が詳らかにされず何の解決にならないどころか、医療への不信感を増大させるだけである。状況が改善する伝え方は他にもあるのに、数字でブラフをかますとは。やはり救急医療現場はもぅ逆上のエリアで、市民をひとくくりにして“自分の首を絞めているのが分からないのか”とおっしゃっているが、それを見る限り「市民!おまえらのせいで市民の命が救えねえんだぞ」というレベルにイってしまっていると断定せざるを得ない。
本当は、実際に一般人とて救急車を呼ぶレベルではないと、コンセンサスを得られるようなケースも多いのだろう。しかし、多くの市民にとって救急車で搬送されるのはあなた方と違って日常ではないことは改めて指摘せねばならない。そういう非日常が、救急現場の厭きれた日常を全部と思い込んでいる人間によって、良識ある市民の首を絞められているのである。これを、救急現場の人間は本当に「是」とするのだろうか。
敢えて言う。救急車を有料化して、隆慶一郎のエッセイ「救急車をタクシーと思うべし」に出てくるような人命の失い方をするのと、ごくごく一部のふざけた輩が救急車を不正利用して救急医療現場の人間がぶち切れストレスが溜まるのとどっちが良いかと問えば、後者のほうが良いのではないか? 実際に軽症者の利用中に重症者が運べなかったケースがどれほど出ているのか触れられていない以上、間違いなく「救急車安易に使うな」系のポスターや救急車の有料化は、健全な救急患者とその家族を悲劇の淵に追いやる類のものである。
医療現場の方の反論もおおいにあるだろう。一部不謹慎な利用者が居ることはよくわかった。だが、「実際に現場はひどい」というのを繰り返すだけでは、実際の状況は市民に理解されないと思う。少なくとも、一般人も一緒に憤ることが出来る不正使用のケースを具体的に挙げるべきである(これでも、いざって時に「不正利用になるんじゃないか」と重症者が考えてしまうリスクはつきまとうが)。是非とも、「軽症」「重症」という括り方を超えて、不正利用をなくすような声の上げ方をして欲しいというのが私の願いである。
最後にもう一度断言する。「救急車を安易に呼ぶな」と市民に訴えるのは危険極まりない行為である。