総集編第2回・原作論・史実と事実~NHK・大河ドラマ編~

 前回、あれだけ「言いたいことをはっきり書く」と言っておきながら、ああいう文章の締め方をしたせいか、智秘図氏ことTomjin氏から「どこから抗議が来てもいいように出来てるね」と言われてしまい、ちょっと反省。たしかに、戦国メディア市過去の作品を見ていてもすべてそうである。だが、それは「いいところはいい、悪いところは悪い」で書いたつもりだったんだがなア。

 「耳をすませば」というスタジオジブリの映画があった。個人的に「人間臭さ」を出した点では、「もののけ姫」以上に気にいっているのだが、この作品の原作は柊あおいという人の少女漫画である。作品があまりに面白かったので、この原作本も買ってみた。映画とはだいぶ違う。こっちはこっちで面白かった。

 ジブリ版の「耳をすませば」の上手いところは、大きいところを原作とまるっきり変えたくせに、ディティールは残したところだと思う。それでも、原作のファンの人はお怒りになっているようだが。

 それに引き換え、大河ドラマの原作とはなんなのであろうか? 私になりに得た結論を最初に書きたい。大河ドラマの原作とは「脚本家その他の大河ドラマ製作者が、その時代のドラマを作るために読んだ『参考文献』」でしかないのである。永田町と庶民との言葉のギャップが話題になった事もあったが、NHKで使われている「原作」という言葉のニュアンスと、我々が使っている「原作」のニュアンスは違うのだろう。その証拠に、大河ドラマオープニングでは「原作」という言葉を使わず、「~より」という言葉を使っている。確かに、同時代を書いた小説よりは似ているだろうが、コピーではありませんよ、ということだ。そんなことにも気づかなかった私はまだまだ餓鬼だったのだろう。

 だが、それでも敢えて言っておきたい事がある。

 「徳川慶喜」も通して見たけど、あれはつらいかも。歴史云々とかそれ以前に、幕末だったら司馬遼太郎に代表されるような作家による「イメージ」が作られているはずなのだ。司馬さんの『竜馬がゆく』の中の坂本竜馬は、史実の坂本龍馬でなくても、「現代の坂本龍馬像」そのままであるはずだ。名前を2かい出しただけで無視というのは、坂本龍馬役の俳優の出演料をケチったとしか思えない。非効率的だと考えたのだろうか。幕末で日本人に人気があるのは、坂本龍馬と新撰組といったところだろう。これに西郷隆盛や高杉晋作、あるいは松平容保・徳川慶喜といったところが続くのだろうと思う。それらをきっちり見る側に「気持ちがいいように」出してやらないと、視聴者としては幻滅してしまうだろう。ついでだが、『徳川慶喜』にも、幕末トーシロの私から見て『嘘』がいくつも見つかった。どうにかして欲しい。だいたいにおいて、いくらドラマを面白くするためだからといって、無知な視聴者を騙すのは罪である。幕末は戦国などとは違う。資料は山積している。「自由度」は低いのだ。真田十勇士が登場したり、光秀の母が本当に殺されたり、坂崎出羽守が千姫を奪う計画を立てたり、石川五右衛門と秀吉が知己だったりするのはいいのである。だって、本当「かも」しれないから。しかし、幕末以降は、第1級資料群によって全て否定できてしまうのである。それを覚悟して、幕末を題材にした以上、嘘をつくことは許されない。あとは、やっぱり書いてしまうのだが、司馬遼太郎の原作を読んだ人ががっかりさせられたこともあげておかねばなるまい。美賀の女中が慶喜の手紙をもって徳川斉昭のところへ行ったら「手紙にある」と騙して手篭めにされた、という話はさすがに大河では無理だろうが、平岡円四郎の無骨な話はやって欲しかった。家来に給仕の仕方、月代のそり方を教えるといったくだりは、徳川慶喜を象徴した話だろうと思ってたのに、どうも。

 大河ドラマは歴史学とは違うだろう。と書くと意義がある人もおありだろうが、とにかく、学問としての歴史、実用としての歴史、娯楽としての歴史、すべて底辺ではつながっているだろうがこれらは異なるものであるはずだ。細かい話しは避けたいが、大河ドラマのような『歴史』では、「エピソード」というものを大切にして欲しい。戦国時代のエピソードは江戸時代にいろんな人が作ってくれたが、幕末のエピソードの半分は戦後に作られたものもあるだろう。ならば、手っ取り早く原作小説からもってくればいいのに、と思ってしまうのである。

 『文藝春秋』を読んでいたら、今年の『元禄繚乱』でも似たようなことがあるらしく、主演の中村勘九郎さんが気に入っていた、原作『新・忠臣蔵』のエピソードが入っていなくて、製作者側と掛け合って部分的に入れてもらう、というところで落ちついたらしい。

 主演男優の提案もその程度にとどめることの出来る、その制作側の自身が、あれだけの豪華キャストに対して視聴率20%強とは、世の中変でちゅね。

 第2回の『秀吉』の時は、「視聴率狙いで史実を曲げるな」と書いた。第15回の『毛利元就』の時は、「視聴率狙いでもいい。『エピソード』を大切にして欲しい」と書いた。これらは矛盾しているようにも思えるだろう。しかし、他の時代劇の回でも書いたこと含め、ある一貫性は通したつもりである。つまり、「完全に事実である史実を曲げて事実でない史実を作るな。ただし、史実でない事実はどんどんドラマの中に取り入れろ」ということである。信玄の死ぬ時期が違う、桂小五郎が新撰組に乱入された池田屋から脱出する、こういったことはやめろ。ただし、本能寺の変黒幕説、墨俣一夜城などは取り入れろ。というのが私の考えである。まずは、そういった『物語』としての歴史を一般民衆にあたえて感動させるのが、国営放送であるNHKが作っているドラマの役割でしょ。それに対して、歴史に興味を持った人が、同局の『堂々日本史』『ニッポンときめき歴史館』をみて、墨俣一夜城の真偽や本能寺の変黒幕説について知ればいいわけである。

 その『史実でない事実』は、原作小説からもって繰れば簡単なのに、あえて自分たちで作ろうとして自縄自縛、その結果『事実である史実』を曲げているのである。なんなんだ?

 あと、一応言及しておくが、作家が自分で史実でない事実を主として構築した時代小説を原作とする以上は、時代小説のままにして欲しい。これは、第28回で述べたとおり。

 何度も書くが、大河ドラマは、音楽・CG・キャストといった点で圧倒している。出演者の演技力もずば抜けている。あとは、「物語」だけなんだ。だから、『八代将軍吉宗』のように、原作なしでやったほうがいいんじゃない?もしかして。

 2000年からハイビジョン化だそうだが、ジェームス三木さんの脚本に、今から期待するしかない。まあ、赤穂浪士ものなら、「松の廊下」と「吉良邸討ち入り」では、みんな見るかもしれないが。

 で、「戦国メディア市」は、おそらく1900年代最後の文章となります。し・か・し、この『メディア市』という文章は、反響も多く、偉大なる『客集め』の文章ですので、ずっと、ずぅーっと書きつづけるつもりです(爆)。まあ、私と皆様が飽きない程度にね。それでは、また逢う日まで。




さようなら、筆者(←自分で言うな)

(初出:「試験電波発射中」掲載・「戦国メディア市総集編・第2回」1999.4.5)