旧Theメディア市一覧

なぜキーボードを叩き続けるのか

関満博をはじめて知ったのは「週刊東洋経済」のある記事だった。修士課程から大学に浸ることなく、実社会に出て経験を積んだ経歴が大学教授の中では異彩を放っていた。いや、もっと鮮烈だったのは「古今東西の専門書50冊を買い込み、1分野3ヶ月で読み終える、3ヶ月の終わりごろには寝不足になるので立って読む」という強烈な勉強手法、それから「妻が小説家の娘で、家とは本だらけであるもの、そういう生い立ちであったことは私には何より救い」というのにギャフンとしてしまった。
それからしばらく。書店にはいるたびに、紺色の「すごい本!」という帯が何回も目に入るようになった。 山形浩生の朝日新聞書評からだった。インパクトある帯をちくまもつくったものだとおもう。そこで初めて私は本を手に取った。旅行時の荷物の写真が目を引いた。だが、それだけでは買うわけには行かなかったのである。
だが、必要あって私は前述の週刊東洋経済をひっぱっていたら、なんとあの新書はあの関満博の著書ではないかとはじめて知るに至った。かくて私はこの本を購入したわけだ。
で、読んでみて。今までの「知的生産法」系という本の中では1番良かったと私は感じている。と言っても、10冊はまだ読んでないのだけども。この本のポイントは、現場主義を徹底させる「薀蓄」 実際の取材の事例が参考になるうえ、手荷物を徹底的に削減しフットワークの良さを確保するオタクなまでの追求がかなりアツい。実際、空港で待ちぼうけするのはイヤだし、私の経験からも史跡を歩くとき、小駅のあるかないか分からないコインロッカーが埋まっていて重い荷物をもって歩き回るより、軽い荷物でフットワークよく、駅に着いたらすぐ歩き出したほうが効率が良い。
一方で、現場調査→執筆活動というサイクルを泥臭く語っているのもポイントだ。生産性を上げる「巧い手」が無いことを喝破したうえで、書く時間を確保するためのエピソードが面白い。「とにかくキーボードに向かう時間をひねり出し、余分なことを考えずに、叩き続けることであろう」と、あらゆる知的生産を行う人間に覚悟を迫っている。だが、ここまで述べてきたことを考えれば、その覚悟は容易にできそうな(否、してしまいそうな)カラクリになっている。そこに、著者と著者を乗せた編集の巧さを感じ得る。
同様に、本は「売るもの」という指摘も虚を衝く突きだ。証言を残すために筆者が行う努力は凄まじいの一言である。〆切をはるか前に原稿を入れる、編集者を悦ばす術が、信頼できる人を推薦する資産になる話は、〆切当日にならないと何も仕事をしない私には耳が痛い。
酒席で「志」を語るかたちは、いわゆる社会科学の大学現場において古くから使われてきた方法だと思うが、その古き良きメソッドが健在であることを実感させてくれた。人との交際こそ、知的生産において最も達成が難しく、必要な分野であるが、その体験的方法論がさらりと触れてある。
旅行で衣類は捨ててくる、論文はラブレターのように書く、整理をしただけで仕事した気分になるのは良くない、共著の意義…珠玉の至言が多いが、ウットリさせてくれる飴のような甘美さはなく、むしろ夏に夕立の中を駆け抜ける爽快感が読後に残る。痛くはないが、これからどうしよ、と少し心弾みながら楽しく困るあの感じだ。
「楽しさ」が工場の現場には落ちていて、それが町に根付いている。それに触れるのもまた楽しさであり、それがために己を磨く楽しさがある。人の心はこうもウキウキするものかとまだ若い(と思っている)自分に示してくれた。知的生産(あるいは知的生産っぽいこと)をする人間にとって、この手の燃料は得がたいものだ。各地を飛び回ってなおキーボードを叩くことの嬉しさを改めて教えてくれた良本だ。


究極の喜劇・大河ドラマ「新選組!」

私が「戦国メディア市」時代から、レビューを書くときの指標にしているのがある。それは、新聞のテレビ欄にある読者投稿である。とくに、読売新聞の「放送塔」はしばしば「他の人がどう思っているのか」というのを知る上で参考にしている。「秀吉」のときは、放送塔を見た上でボロクソ少し書いてもみんな同じことを思っていそうだと考えてあの「戦国メディア市・第2回」となったわけである。
今回の「新選組!」では、意外と酷評は読売新聞のほうには行っていなかったようで、むしろ「若者層、10代に人気」とあった。インターネット全盛のこのご時世に新聞に投稿する若者なら心からそうおもったのだろう。ただ、テレビ朝日の「忠臣蔵」に投稿されていた年配者は「これぞ正統派時代劇、近年の若者に媚びたトレンディードラマ仕立てのドラマにはウンザリしていた」的論調で褒めている気配だったので、「新選組!」に不満はあっただろう。
確かに今回の配役は非常に軽くて、テロップで最後に出てくる俳優が江口洋介だったり伊原剛志だったりして「いいのかなこれで?」と思うことはあった。だけども、「新選組の当時の実年齢に近い」というのは、反論できないキャスティング理由だ。山南敬助は一躍人気モノになったし、藤堂平助が良かった。沖田総司が「平助は京都に行けて、なんで自分は江戸の道場に残らないといけないんだ」って嫉妬する藤堂平助は、正しく史料の隙間を埋めたもので、こういうのは私として非常に好感が持てる作品作りである。ただ、個人的には近藤周平がらみに違和感はあった。兄貴を切られてここまでいるのかなーと。だけども、一次史料違反を犯してまでドラマに走ることは無かったと思う。「秀吉」と違って。
新選組や忠臣蔵のような、文学寄りの歴史は、最初に影響を受けたものをずっと後生大事に引きずってしまうのだと思うんだな。坂本龍馬モノなら、多くの人が「竜馬がゆく」を基軸に判断するだろうし。「新選組!」も、それまでの年長者が演じてきた新選組モノから離れられないとおもうのですよ。だけど、今回は小学生がやったらみていたようで、これからの幕末業界(?)も変わっていくかもしれない。
最終回などで嘗ての土方歳三、沖田総司を演じた役者を出してみたり、そして親子2代の芹沢鴨といった時代劇通に見所を用意したのは流石だと思う。佐藤浩市は映画版「壬生義士伝」(浅田次郎作、文春文庫)の斎藤一がしっくりきていたので、それの残像に負けそうなところがあったのは認める。だが、切り込みに行ったときに起きていて「待ってたぞ」という、クレバーで繊細な芹沢像は、史実に違反するところ無く制作者サイドの自由采配が成功していた。
前回“「新選組!」最大の見せ場は坂本龍馬暗殺”と書いたが、結局はオーソドックスに見廻組実行犯説を採ったようだ。だが、御陵衛士が坂本龍馬警護をしてたり、原田左之助が坂本龍馬暗殺後に来て「こなくそ!」と叫び刀の笄を落として行ったり、突っ込みどころを丁寧に触れている点は好感が持てた。また、昨今の時代の流れに沿って、薩摩藩が裏で糸を引いていたりするのも、あらゆる突っ込みに先手を打つ方法だったとおもう。これなら、ユニバーサルにどの説を取る人にも、一応の満足が取れるだろう。
坂本龍馬暗殺と言えば、日本テレビの「時空警察 Vol.4」でもやっていた。なんつーか、同じ週の日曜日にちょうど「新選組!」でも寺田屋事件だったが、「新選組!」でも「時空警察 Vol.4」でもおりょうが龍馬に注進するのに衣服を着けていた。極めて遺憾である。べつに全裸を画面全体に出せといっているのではなく、足だけ、肩だけ、背中だけをだして差し迫る脅威に緊迫する寺田屋を表現するにはおりょうは全裸でなくてはならないのだ!……エロオヤジか俺は。とはいえ、史料的確認を取っていないので、じつは衣服を着けていたのかもしれない。
えーと、で、肝心の本題だが、「時空警察 Vol.4」では、大久保利通が何らかの手段で見廻組に龍馬の場所を教えたというのが弱った。そこが何かはっきりしなければ、薩摩黒幕説は成立しない。だいたい、実行犯=今井信郎、黒幕=薩摩は「時空警察 Vol.4」のときが初めてで新鮮ではあったが、薩摩が暗殺を計画したものなら、中村半次郎実行犯説のほうが説得力があった。だが、「新選組!」のように、きちんと薩摩から見廻組への情報リークが描かれるとスマートにいけることが分かった。これはこれで堪能できた。
坂本龍馬暗殺犯を探るのは、実行犯から探れるので面白い。ただ、なんせ利害関係が複雑に入り組んだ時代であるので、完全に特定するのは難しいだろう。本能寺の変同様、「歴史学的には謎のままである」という状態が、新史料なりDNA判定(?)なりがでない限りは続くことであろう。※個人的には、「壬生義士伝」での説はかなり説得力がある面白い説だった。
来年は、主人公こそタッキーだが、それ以外が超重厚重量級配役で、上記年配者の皆様も満足できるのではって感じだ。高橋英樹の「大好きな時代劇に帰ってきました」というコメントが泣けた。「新選組!」といい、「義経」といい、最近配役が上手い気がする。義経そのものの配役も若いわけで、義経のか弱さ、幼さ、無邪気さといったものが初めて表現できるかもしれない。
それよりもなによりも、最近なかなか大河ドラマの時間に在宅していないこと。それから、ビデオ録画しようにも某A社のテレビデオ(いまだにVHS)が欠陥で録画できないこと。これで全部見られないのが問題だ。全話収録されたDVDBOXも発売されるようなので、いい加減DVDが見られる環境が欲しいところだ。
まあ、前年度の「武蔵」と違って、普通に見てられて良かったですよ。だいたい、テレビで「見ていて苦痛、見ること事態が耐えられない」というのは異常すぎる。昼のメロドラマや2時間サスペンス、日テレやテレ朝の視聴率5%ドラマでさえも、そんなことはないのだ。今回、要所要所で喜劇作家が涙を見る側に誘っていたことこそ喜劇そのものであり、喜劇作家・三谷幸喜の面目躍如かもしれない。


講談社現代新書の自殺

 近年、新書ブームが巻き起こり、書店の新書コーナーは百花繚乱の様相だ。新書は、まずその装丁で、新書のイメージがまずプリセットされるものである。
 新書ブームの先駆け、PHP新書と文春新書。PHP新書の赤茶色と明朝体にまずは惹かれた。文春新書はデザインとしては真新しさはないが、濃紺と白色の地が新書の知的さを醸し出してくれ、その後文春新書はよく買うようになった。
 集英社新書の「銀」も悪くない。贅肉を感じないシャープな感じは先進的内容によくあう。カバーではないが、ちくま新書の独特のタイプグラフィーも好きだ。良書を絶やさずに出してきた筑摩の志が心地よい。「バカの壁」で強烈なデビューをした新潮新書。「新」の字が2つあることも目を引くが、「金」のイメージが華やかさを演出し、ざっくばらんに物事を語ってくれそうな気楽さがある。もちろん、岩波新書の旧赤や緑、黄色はそれだけでここまで続いてきたことへの敬意を抱かせてくれる。中公新書の深緑は、歴史愛好家にとってとっても身近な安心感だ。
 で、私にとっては、やはり「3大新書」は、岩波新書、中公新書、そして講談社現代新書である。中学生の頃は、学校の図書室にある古ぼけた冊子の中のワンポイントの絵が気になっていた。背表紙をナナメ読みすると、興味を持てそうな内容があるではないか。講談社現代新書表紙の「絵」は、新書への誘いとして確実にあった。
 今秋、講談社現代新書がリニューアルした。表紙のデザインは、(当然)新進気鋭のデザイナーによるものであり、1冊単体では隙がない。デザインのセンスは、新書の中でも上位かもしれない。文字の配置も唸らせてくれるし、真ん中の四角形が知を突きつける。が、問題は色である。
 ケバすぎる。
 新書は、当然平積みもされるが、基本は書棚に並べられて売られるのが基本だと思う。なんと、ご丁寧にこれまでの冊子をすべて新装に置き換えて売ってくれている書店があり、その書店では、講談社現代新書の棚だけがメルヘンワールドである。原色が派手に自己主張し、明らかに書店で浮いている。雑誌の棚の、雑種な色彩が花畑のように見えるようなほほえましさはそこにはない。書店で眼が疲れるだなんて初めての経験だ。これでは、新書を買うときの醍醐味、「新書の棚を追って面白そうなタイトルを見つける」なんてことは出来ない。背表紙の文字もウェイトが高く、その上背表紙の地色によって白だったり黒だったりする。
 エコノミスト誌(日本版)によると、いちいち違う絵を入れていたので、講談社現代新書は他の冊子よりコストがかかっていたそうだ。それを止めるのは別に否定しない。だが、あの背表紙だけは何とかならなかったのか。デザイナーだけの責でもなかろう。講談社現代新書編集部の要望も大きく新装丁には取り入れられたのだろう。一体どういう意図なのか、理解に苦しむ以前にその発想に全くついていけない。
 せめて、「新版」として新刊のものだけに適用して欲しかった。私はデザインに関してはストライクゾーンが広い方だと思う。たとえその結果可読性、視認性が下がったとしてもデザインの意図は分かるものだし、それが人々の魂を振るわせる。もちろん、両方を兼ね備えた完成されたものにはいつも唸らせられる。デザインというものがここまで「害」を撒き散らす例を、私は初めて見た。